六十歳からが人生の本番 その
やまのい高齢社会研究所   山 井   和則

京都桂川園   鎌 田   松代

ケアマネージャー  佐々木 信子


その1 その2 その3 その4

ホームも、これからは
個室を中心に。そして
もっとオープンな形に

鎌田

さきほどから、話が出ている、病院が好きとか、本人独特の価値観ですが、やつ.ばり、これから変えていかないと、高齢化社会というのが、うまく動いていかないと思います。長生きするということを、自覚していくほうが、いいと思います。

六十で、いろいろな第一線から退いても、そこから二十年なり、二十五年ぐらいは生きるんだと、考えることですね。

でも、二十年って、長いですよね。生まれてから成人するまでと同じ二十年なんですから。

自分の体が動かなくなりつつある中で、生きていかないといけないから。やっぱり、元気なときと同じような生活パターンじゃなくて、変えていくような.L夫が必要ですね。自分の体に応じた生活をやっていくという柔軟さは、すごく大事だなあと恐っているんです。

だから、自分が働きづらいから、忘れるからと、ものを出しつぱなしにして、足の踏み場もないようにするのではなく、昔と同じように整理整頼をするとか、毎日買い物に行けなくなるなら、ちょっと冷凍ものも使ってみようとか、そういうふうに生活スタイルを変えることも、大事じゃないかと思います。

それと、施設の数も足りません。ぜったい足りない。

佐々木さんのお話にあったように、老人病院から比べれば、食事も三度三度、ちゃんと食堂で座って食べられる。トレイにのって、食器もきれいで、見た目もおいしそうな食事が食べられる、というのがあります。でも、ホームが目指すものは、それぞれの人が暮らしていた家での生活に限りなく近づけたい。限りなく近づいた生活ができるように支援したいという思いがありますよね。

私も、もし、要介護状態になったときでも、なるべく自分が暮らしていた生活をそのまま生かしたなかで、ケアを受けたいと思いますから、やっぱり、ホームは在宅の生活により近い形で、反対に在宅は、ホームの安心さに近い形のものを、限りなく追求していきながら、そのどちらかを選べる、という形にしていくほうがいいだろうと思います。だから、個室があるのはうらやましい。

ほんとに、個室でないがためのトラブルっていうのも、けっこう多いんです。

山井     仲たがいとか、あるんですか。

鎌田

仲たがいもあるし、あとは、やはり、臭いと音の問題が大きいですよね。

山井     臭いって、ポータブルトイレの問題ですか。

鎌田

そうです。使ったら必ずすぐに捨てるんですけど、排泄の臭いはこもるんです。あと、

室温の問題があります。本人の体感温度に違いがあって、あるお年よりは、ちょっと室温が上がったら、すぐに熱をだしてしまうから低くしたい。もう一人の方は、体温調節がうまくいかないから、どっちかというと、高めの温度で過ごしたい。そんななかで、四人部屋で過ごさなきゃいけなかったら、どうしても、うまいことはいきませんよね。あと、夜遅くまで、テレビを見る方と、早く寝たい方。

これが、個室だったら、なんにも問題がないし、好きなように物も置いておける。

だから、たとえば、テレビもそうだし、冷蔵庫も置いて、自分で好きなものを食べる。たとえば、ナイトキャップが好きな方だったら、寝しなに、小さいビールなりね。あと、コーヒーが好きだったら、コーヒーでも入れられるように。

そういう環境、スペースが欲しいんだけれども、いかんせん狭いからできない。だから、着るものも、三組ぐらいしかおけない。それ以上は持ってこなくて、家族が頻繁に来て、季節のものを取り替えてくださる。だけど、選べる服がない。でも、それは、収納スペースがないんだから、仕方がない。

壁に何かを貼りたくても、壁のスペースがないから、そんなこともできない。

だから、ほんとに在宅に近い形の居住環境が必要なんです。自分の生活を持ち込みたいと思ったときには、ある程度の物を持っていきたい。ホームの在宅化、在宅のホーム化。

個室だったら、養老院というイメージもなくなるだろうし。あと一つは、やっぱり、養老院とか老人ホームに悪いイメージがあったのは、福祉施設が閉鎖された環境にあり、町から遠い場所にあることです。

うちは、ありがたいことに、町中ではないですけれど、近くにコンビニもあって、ファーストフード店もあって、隣はスーパーで、というような環境のなかにあるので、わりと外には出やすいんです。ちょっと、駅からは遠いんですけど、来やすいといえば、来やすいんです。

離れた環境だったら、人も行きにくく、地域の方も入りにくい。どうしても隔絶されてしまう。だから、自分のところのケアを見せたくないと思えば、隠すこともできる。そうしたら、よけいに、あそこは何をしているところだろうと言われる。

もっと、地域に開放して、ホームって、こんな所ですよと、もっとオープンに見せていければ、それぞれが持っておられる養老院というイメージが払拭されていくと思います。

職員も、見られているから、めったなことはできない。オープンな形というのがいいかなと思うんですね。考えておかないと、ダメですね。

在宅介護がベストとい
う考、え方を捨てる

佐々木

自分の家が広かったら在宅介護でもいいけれど、むしろ狭すぎるというほうが、京都では多いですね。

京都は、震災や戦災に会わなかったために、もう百年以上前からの長屋っていうのも、けっこう多いんですよ。人だけがかろうじて歩ける程度の道幅で、そういうところに一人で住んでいるお年よりもおられます。

そういうところでの毎日を見ると、在宅といっても、こういう環境で、はたして在宅が幸せだろうかと思いましたね。それに、家族とのいさかい。それを隠そうとするところ、やっぱり見えないところでの虐待が起こりますからね。

老人にとって、在宅介護イコール幸せにはつながりません。冷暖房があり、設備の整った施設に入れてあげたいと、つくづく思いました。

山井

鎌田さん、たとえば、自宅から、老人ホームに移ってこられたケースだったら、何割ぐらいの人が、自宅にいたときより幸せになっておられるなと、感じられますか。

鎌田

うちで、自宅からホームへ来たという方は、圧倒的に少ないです。今のほうが幸せかどうかは、本人の気持ちの部分なのでどうでしょうかね。でも、介護に疲れている家族に、迷惑かけているなあ、と負い目を感じている方だったら、ホームの方が気兼ねがないだけ、幸せなのではないでしょうか。

山井     ああ、そうですが。

鎌田

活動能力も、あがってきます、動ける環境があるから。

いままで狭いところで動いていたのが、食堂に行くのにも、トイレに行くのにも、けっこう歩かなければならない。ちゃんと歩ける環境があるから、活動能力は、あがってきている。

あと、再三言うように、在宅がベストという考えは、家族の側も、捨てたほうがいいだろうと思います。

そこにこだわりすぎると、介護しなければならないというプレッシャーと、実際の介護の大変さとのはざまに、負けてしまって、虐待しちゃう。見えない虐待を、たくさん、やってしまうから、それだったら、ケアはプロに任せて、あと精神的な面とか、そういうところだけを、やっていく。介護の分業をやっていくほうが、両方にとって幸せだと思います。

やはり、プロはプロなりの視点でとらえるし、技術を身につけているから、それはそれでいいと思うんですよね。

それと、家にいても、家族から大事にされているという人たちが、あまりいないんです。どっちかというとね。

ほとんどが、社会的入院で病院とか老人保健施設とか、そういうところをずうっと転々としてきて、やっと、ホームの順番がきたという人なんですね。

でも、頭がしっかりしている方は、やはり、ホームが窮屈だと言いますね。というか、ホームの人間関係がわずらわしい。

どうしても、痴呆の人と一緒に生活しないといけないので、痴呆でない人は耐えられなくなってしまう。こんな環境の中にいたら、自分までおかしくなってしまうと言われる。

急に殴りかかるような方の横で、ご飯を食べなければいけない。何を言っても、同じことしか言わない。話が通じるのは、職員しかいない、という環境ですごさなくてはいけない。そのなかで、自分を取り戻して、生きていかなくてはいけないというのは、けっこう、辛いものがあるなあと思います。

その反対に痴呆の方も気の毒です。職員ならわかってあげられるのに、いつも怒られる。痴呆の方にとって、どなる人は怖い存在で、自分に危害を加えるかもしれないと感じるんです。

 

個室のユニット型ホ
ームが理想なのだが

山井

だから、老入ホームも、二十一世紀型の老入ホームを考えたら、やっぱり個室でね、ユニット型。

ユニット型というのは、たとえば、五十人の老人ホームであっても、中が七、八人規模に分かれていて、そのユニット一つに、キッチンがあって、そこに専属のスタッフがいる。こういう個室ユニット型老人ホーム、別名、住まい型老人ホームと、私は呼んでるんですけどね。

実際は、まだ、むずかしいかも知れないけれど、介護保険になったので、本来、老人ホームも、選べるわけでしょう。そうしたら、やっぱり、窮屈なとこじゃなくて、個人のプライバシーが尊重されるような、もう一回、そこで人生の最後が楽しめるような老人ホームが、生き残れるようになればいいなと思うんです。

でも、残念ながら、現実は、ただでさえ、数が足りないんだから、そんな賛沢はとても言えないんです。

鎌田

それと、経営が苦しいから、そんな設備投資をやってられない。見通しの立たないなかで、いま介護保険を迎えているから、施設が、そういう理想に燃えられないという現実はあるんです。でも、始まったところだし、希望は捨てずに、且措すところを目ざす。

山井

佐々木さんのところはどうですか。介護保険が導入されて、どんな声が聞かれますか。

佐々木

介護保険がまだ浸透していないな、中途半端だなと思います。四月になってから、やっと話題になってきてる。もう少しわかってくれても良い世代の人達、たとえば、五十代ぐらいの人でも、無関心というか、介護保険のことなんか、関係がないというふうに、知ろうとしない。新聞に書いてあっても、目に止まらないらしくてね、まだまだ、浸透てないなと思うんです。

介護保険ができたことで、介護の形態が変わってくる、ということが、ボチボチ知られるようになったのではないでしょうか。お隣りさんが、こういうサービス使ったことを知ってくれば、ロコミで分かっていくんじゃないでしょうか。それには、もうしばらく、時間が必要ですね。しかし、介護が社会化されたいう点では、すごく、よいことだと、私は、思っています。

 

暮らしには、やはり個に
なれる場所と、みんなが
集える場所の両方が必要

鎌田

リタイアしてからの三十年なり三十五年は確かに長いと思います。自分の弱った体と付き合いながら、生きなきゃいけないから、辛いですね。佐々木さんが言うように、自分の体が思うように動かないなかで、やっていかなきゃいけない辛さというのが、すごく重い。昔だったら、もっとやれたのにと、どうしても思ってしまうから。

そういうところ、外国の人ってどうやって生きて、乗り越えているんでしょう。

山井

一つ思うのは、日本人というのは、まるでこまねずみのように、こせこせ、あくせく働きますが、そもそも欧米は、働き方や生き方が、わりと、のんびりしてますからね。だから、体が弱ってきてもそのギャップが少ないんですよね。

それと、向こうの人は、働かないほうが、楽しいんですよ。働くのは、嫌でしょうがなくて働いているという感じなのね。だから、仕事しなくなるのは、すごく嬉しいことみたい。

鎌田

それは、経済の保障がされているからでしょう。日本ではされてないじゃないですか。

山井

いや、たとえばアメリカなんてね、保障されてないけれど、わりと明るいんですよ。

私がスウェーデンに行っていたときに、日本のある大手企業からスウェーデンに出向していた人が、六十歳で、定年になったんですよ。そうしたら、ある日の朝礼で、「私は、もう六十だから、これで辞めねばならないんだ」と言って泣いちゃったわけですよ。本人は、まだまだいけると思っているわけだが、仕事を辞めなければならない、もうショックなんですよね。

でもね、スウェーデン人は、その涙の意味がわからないんですよ。「よかったじゃない。明日から、遊べるじゃない」というのと、六十といっても、いまバリバリ働いている人を、スパッと辞めさせるという日本のやり方も、また、納得できない。

やっぱり、スウェーデンとかだったら、部分年金制度というのがあって、六十過ぎたら、五年間は週三日で、働いてください、とかいってね、それで、老後にソフトランディングできるようになっているわけです。

退職するスウェーデンの人に聞けば、「一日も早く退職したい」と言うわけです。「でも、生きがいはなくならないのか」というと、「何言ってるんだ、俺は、魚釣りもやりたいし、旅行にも行きたい。いつ、退職の日がくるかと、指折り数えて二十年待ってたんだ」と。「これからが楽しいよ」といって、ほんとに、目をランランと輝かせているわけです。たや、退職だ、もう、だめだと。

鎌田     涙流して。

山井     涙流してる日本人とね、ぜんぜん違う。

鎌田

そうですね。意識をかえてと言われても、私も、退職になったら涙流すかもしれないなあ。趣味はあってもね。

山井

でも女性の方は、あんまり問題ないんじゃないですか。女性の方は、地域に知り合いも多いから、旅行にいったり、サークル活動をしたりもできる。でも、日本の男性は苦しいですね。うちの父親なんかも、友達いないですからね。

やっぱり友達がいないのはダメですね。歩いていけるあたりに、友達がいるというのは、すごく大事なことですよね。

ただ、いないのは、まだ、ましなんです。退職してから友だち作ればいいわけだから。でもね、友達ができないんですよ。これは苦しいな。

鎌田

本人が、「自分は人付き合いが苦手だから」といって、あえて、そういう環境のなかには、飛び込まない。「なんでそんな面倒くさいことしないといけないんだ。家にいてもいいじゃないか」という意識がある。苦労はしたくない。たとえば、老人センターで、友達づくりのサークルがあったとしても、あえて行こうとしない。

でも、やっぱり、そういう人たちは、地域の中で動かさないといけないのかもしれないね。

きょうは、ここで地域奉仕をしましようとか言って、無理やり動員する。そうすれば、人のお役にたってるという意識が芽生えて来るんじゃないかな。街路樹の手入れとか、空き缶拾いとか、なんだっていいんです。

佐々木     それができる人だったら、いいかもしれないけどね。

鎌田     違う。無理やりよ。

佐々木     無理やりには動きませんよ。

女性には、相手が亡くなっても、しばらくしたら、生き生きしてくる人が、けっこういますね。でも、男性は、もう、打ちひしがれて、しおれていくというケースが多いと思いますね。

山井     男性のほうが、愛が深いんですよ。

鎌田     え一つ、そうかしら。

佐々木

そうかも知れませんねえ。でも、男の人も、周りの人と、もうちょっと付き合ってもらわないと、困りますよね。隣りの奥さんの名前も知らないという人、多いですもの。サラりーマンだったら、かなり多いんじゃないですか、そういう、地域に無関心な人たちが。

鎌田

やっぱり、いまの仕事社会の弊害が、いろんな形で出てきていますね。だから、もう、

町内の役でも、「あなたは行かないで、私が行ってくるから」とか、「主人は忙しいです」とかいって、女性が出てくる。

「主人は暇です」なんて言ったら、リストラされたのかと勘ぐられるような世界だからね。

だから、地域で、男の人も活躍できるようだったらいいけど、いまって、違いますよね。

男の人も、もっと他人とかかわるようになって欲しい。そのことと、個を大切にすることは矛盾しないんです。

人間は、自分の個の生活と、他人との関わりを持つ生活というのを融合したなかで、暮らしてるじゃないですか。

家族同士でもそうだけど、やっぱり、自分が一人になれる場所と、みんなで交流出来る場所を設けなければならない。ホームも、それが、可能なはずなんです。でも、いまのホームというのは、個室じゃないんです。六人部屋とかね。いま、作ってる分は、四人部屋なんです。国の基準は四人部屋なんですね。

だから、個がないんです。全部、抹殺されてしまっている。極端な例が、老人病院ですね。

人権とか、全部、無視してしまっている。結局、働いている私らも、何をしてるかわからなくなることがある。自分も、つぶれていってしまうんです。

暮らしというのは、個になれる場所と、みんなで集える場所の二つの生活空間があるというのが、いちばんです。在宅で一人暮らしの人でも、やはり交流のある生活が必要です。

男の人って、リタイアして、趣味も何もなかったら、家で、一日何もせずに、奥さんが何をしているか、見張っているだけの生活でしょう。そんな個の生活だけしかないから、ボケるしかないんです。だけれども、地域とか、そのほかの人との関わりのある生活が大事なんです。

趣味や、地域のボランティア活動とか、そういうことがやれるのは、やはり、人生を豊かにしていくものだと思うんです。

山井

いま四人部屋のことを、おっしゃったけれども、この四人部屋も、十年ぐらい前に、そうとう研究してるんです。

なぜ、個室がいいのかというと、一見、矛盾するんですけれど、人との交流を重視するゆえに、個室のほうがいいんです。逆に、四人部屋にいるとね。

鎌田     交流しない。

山井     そう、人が煩わしくなってくるんですよ。いつもいるか。

鎌田     だから必ずカーテンしめてる。

山井

そう。一人になれる時間と空聞がなかったら、それこそカーテンを閉めて、人とは、もう会いたくなくなつちゃうんですね。一人になりたくなって、心閉じちゃうんですよ。ところか、個室が保障できると、一人の時間、一人の空間が確保できるから、今度は人と会いたいという欲求が出てくるわけです。

だから、人間を恋しくするためには、個室があったほうがいいんです。逆に、四人部屋にいるとね、人間嫌いになるんですよ。もう、一人になりたい。人としゃべりたくない。と、こうなる。だから、そういう意味でも、人との交流というのが、お年よりにとって、大事であるがゆえに、個室が必要ですね。

私、老人ホームの四人部屋でね、三晩、寝てみたことがあるんです。これはね、壮絶な経験ですよ。想像を絶しますよ。

まず、ポータブルトイレの音と臭い。隣であめ玉食べてる音は響き渡るわ、おしっこしている音も、まる聞こえですよ。それに、いびきと寝言。

夜寝たら、横のおじいさんが「寝てられるか、こんなところで」と。そりゃあ、正常な感受性では、神経がもちません。ボケないと、やってられない。

鎌田

病院で、自分が病に臥せってるときだったら、まだ、辛抱できる。病気を治さなくてはと思うから。だけど、これか、死ぬまで続くと思ったら、ほんとに、やってられない。

山井

これがいちばん簡単に体験できるのは、団体旅行に行って、四人部屋とか、八人部屋になったときですね。そこには、たいてい、いびきかく人もいますしね。こりや、参ったな。一晩ぐらいなら、参ったなですむんですけど、死ぬまで、この生活しろと言われたら、もう、ギブアップします。ほんとうに。

鎌田

そこに痴呆のお年よりが来るとね、夜間に、寝ぼけて、いろんなことをされるわけね。

山井      ふとん、はがされたりするんでしょ。

鎌田

そうそう。枕元の物を取られたとか、「ここに誰さんがいるから、あなた、どうにかして」とか言ってくるけど、私も眠くて眠くて、気持ちが悪くなってくる。

山井

それを、昼夜逆転というんです。夜に、ぐっすり眠れなくなって、昼間、寝るようになるわけです。昼と夜が逆転すると、いちばん痴呆にもなりやすくて、体も弱ってくる。また、介護する人も参ってしまう。

鎌田

私の施設では、痴呆のお年よりと、ふつうのお年よりとを、フロアや棟で分けることは構造上できにくいんです。介護度ではないんですけど、常に見守りが必要な人は、寮母室の近くの部屋に入ってもらいます。

だから、短期入所、ショートステイっていって、一週間だけとか、三日だけとかね、そういう形で来られる方は、やはり事故が起こりやすいので、いちばん寮母室に近いところに入っていただきます。

やはり、人には相性があるから、なかなか、痴呆の程度だけでは、分けられないんです。

分けたい気持ちは、やまやまなんです。できれば、分けたいんです。お互いのためにもね。

でも、設備と人員の問題があってできないんです。それに、痴呆もピンキリだから、痴呆のどこまでの部分で分けようかというのが出てくるんです。

 

どんな死に方をしたいか
話しあい書き残しておく

佐々木

もう一つ、付け加えたいのは、わたしなんかは、痴呆というものを経験したんで、やっぱり、自分が何時そうなるかわからないということを、認識しています。だから自分の最後を、どういうふうに過ごしたらいいかとか考えますね。

鎌田     財産とかね。

佐々木

財産とか、それから、死に方の問題。それから、後見制度の問題。元気なあいだに、後見人を決めておく。そういうことを、ぜひ、やっておいてほしいと思うんですよ。残された家族も困ると思うんですよね。この人、ほんとは、どういう死に方をしたがったんだろうかってね。それは、ぜひ、書いておいてほしいと思う。

鎌田

それを考えると、辛くなる部分があるから、あまり触れたくないし、考えたくない気持ちがあるんですよ。私自身も。

佐々木     でもね、六十五歳になったら、そうは思わないわよ。

鎌田

両親に老後は頼むよと言われながらも、具体策は出してくれない。「どうするつもりなの」とつい思ってしまうんですよね。話し合っておくというのは、大事ですよね。

佐々木

私たち夫婦二人で、自分の死に方について書き残す約束をして、今年の正月に、主人も、自分のこと、書きました。

病気になって、寝たきりになったら、こういうふうにしてほしいとか、死に方の問題とか、

それから、財産をどういうふうにしようとかね。

鎌田

たぶん、佐々木さんは、いままでずっといろんな活動をしてきていて、そういう話をされるのでしょう。認識をしているから、それの必要性というのが、やっぱりわかっているんだと思うんです。だからこそ、お年よりがどう考えているのか、知っておくことが大事なのかもしれないですね。


60歳からが人生の本番

その1 その2 その3 その4

戻る タイトルへ戻る