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鮎宗
宇治紀行
─ その3─
宇治の網代木


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― その8 ―
― 番外編 ―
もあります。
ご覧下さい。
宇治の網代木

網代木のこと
 秋から冬にかけて、琵琶湖で生まれた鮎の稚魚「氷魚(ヒオ)」は、宇治川を下って大阪湾に至ります。氷魚は、供御される朝貢品でありました。その氷魚を獲る漁法を、「網代(アジロ)」といい、「あみしろ」という意味です。漁網の代わりに、川瀬に竹や木を編んだものをV字型に立ててその端に簀(ス)をあてて魚をとるのです。杭などを網代木(アジロギ)と呼びました。
 古来より宇治の網代木は、川風、川霧、筒車(水車)、柴舟とともに、宇治の風物詩の一つで宇治の名所の歌枕となっていました。和歌や物語、日記にも読み込まれ、石山寺縁起絵巻や平等院扉絵にも描かれています。わざわざ見物するために宇治を訪れる人もあったととも言われているのです。
 平等院の扉絵には、阿弥陀如来と諸菩薩たちが死者の魂を迎えにくる来迎図が描かれています。その来迎図は、堂の回りの北面に春、正面に夏、南面に秋、背面に冬と、四季が配分されている倭絵の四季絵の上に描かれているのです。その秋の題材が、宇治の網代木なのです。

文学に見る網代木

万葉集から
 柿本朝臣人麿、近江国より上り来る時、宇治河の辺に至りて作れる歌一首

もののふの 八十氏河の 網代木に
  いざよう波の 行方知らずも
         (二六四)

 人麿は、万葉集の代表的な歌人で、持統、文武両期に仕えた宮廷歌人でした。後世、歌聖ともいわれながらも、身分は低く、晩年は石見国(鳥取県)の地方役人でした。

柿本人麿の万葉歌碑
ここからは、店主の思いです。
 人麿が、天智帝が築いた大津の宮、荒れ果てた志賀の都を見てきたのか、朝鮮半島百済の貴族の末裔ゆえに国際情勢に通じていて何らかの科を受けてか、後年の平家一門の薩摩守忠度のように勅勘を受けて、都落ちをせざるを得なかったか分かりませんが……。人麿は宇治の網代の実景を描写しながら、宇治の川瀬の波に自分の身を重ね合わせているように感じます。なぜか無常感が漂う一首ですね。

〈 当店より徒歩 約3分 〉
万葉集第七巻から
 氏河は 淀瀬無からし 網代人 舟呼ばふ声 をちこち聞ゆ (一一三五)
  この歌碑は朝霧橋の上流右岸にあります。
  「淀瀬無からし」は、歩いて渡れるような浅瀬はないという意味です。

平家物語 第四巻 橋合戦宮御最後から
 伊勢武者は みなひをどしの 鎧着て 宇治の網代に かかりぬるかな
  緋縅(ひをどし)と氷魚をかけています。
小倉百人一首から
 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (千載集)

『源氏物語』橋姫の巻や、宇治左大臣と呼ばれた藤原頼長の日記『台記』にも
網代見物の事が記されています。

武者の世となりにけりと記した愚管抄の著者、大僧正慈円
 網代守る 賤の心も 冴えぬらん 宇治の川風 浪にやどりて (捨玉集、二)
川霧が漂い、寒さ厳しい宇治川の早瀬に棹さしながら、柴舟をあやつり、
氷魚を獲る漁に励む宇治の里人がいたのです。私たちの先人である宇治の里人を
はじめて読み込んだ唯一の歌です。
 やがて武者の世が到来して、宇治川は、はなばなしい合戦記の舞台になっていくのです。王朝文学の詩歌や絵画のモチーフになって賑わいを見せていた網代は、永久二年(1114)九月、殺生禁断のゆえをもって破脚されてしまいます。さらに、弘安七年(1284)、奈良西大寺の叡尊は、宇治橋がたびたび流失するのは魚霊の祟りであると考え、宇治川殺生禁断の令を朝廷に要請しました。その供養塔として浮島十三の塔が建立され、その塔の下には漁具などを埋めて、弘安九年(1286)に法要が営まれました。その後、網代などの漁法は禁じられ、宇治川での網代木は消えていったのです。

 さて朝廷でもてなされた氷魚、古の頃はどのように賞味されたことでしょうか…ちょっと湯に通して酢醤油で食べるとおいしいです。

ところで…
 今回は秋の風物詩として「宇治の網代木」をとりあげました。 その網代木はどのあたりにかけられていたのでしょうか?
 奈良・平安時代の宇治橋は、今の宇治橋より約100メートル上流にありました。宇治橋から大阪湾まで約52キロメートルあります。大阪城天守閣と琵琶湖とは、ほぼ同じ高さです。宇治川の中で、今の宇治橋上流、1キロメートル程が最も勾配があり、一番流れが早いところです。
 かつては平等院の浜であり、また宇治神社の神輿洗いが行なわれていた宇治川……これらは宇治の早瀬たる由縁です。 現在、世界遺産である平等院や宇治上神社の間の宇治川は、そのバッファーゾーンなのです。

 網代木の場所は、平等院付近にあった古の宇治橋あたりから、下流槇島までが考えられます。 川には、網代木だけではなく筒車(水車)も、ともにかけられていたでしょう。 宇治川下流は、やや流れが緩やかになっています。宇治川先陣争いの場所はそのあたりではないかと言われています。



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宇治紀行
その1
平家物語
「宇治川先陣争い」


その2
浮島十三重の石塔


その3
宇治の網代木

その4
宇治拾遺物語
「鼻」


その5
種田山頭火
“宇治平等院 三句”


その6
≈ 宇治 ≈ 秋の行事 ≈


その7
パワースティション
の町〜宇治


その8
冬の宇治


番外編
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