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宇治紀行 ─ その2─
宇治の塔物語

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― その7 ―
― その8 ―
― 番外編 ―
もあります。
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浮島十三重の石塔(重要文化財)

京都府立宇治公園中の島に建つ「十三重石塔」は高さ約15m、現存する日本最大の最古の石塔です。 歴史をさかのぼること720年、鎌倉時代。奈良西大寺の高僧の叡尊によって、宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建立されました。

 弘安7年(1284)、宇治橋の架け替えに際し叡尊は、橋の流失は魚霊の祟りであると考え、宇治川の殺生禁断令の発布を朝廷に要請し、その後、網代などの漁法は禁じられたのでした。塔の下には漁具などを埋めて、弘安9年(1286)に、法要が営まれました。 基礎の表面にはその縁起を記した一千字をこえる銘文が刻まれています。
 塔は、洪水のために倒壊と修復・再興を繰り返してきました。しかし、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間、川中に埋没していました。 現在の姿となる再興は、多田清蓮率いる「福田海(ふくでんかい)の人達によって川床の泥砂に埋もれた巨石の所在確認を第一歩に明治40年(1907年)より発掘に着手、同年11月から工事が始まりました。

〈 当店より徒歩 約2分 〉
 翌年の4月から行われた石積み工事の際、福田海の女性信者より寄進された髪の毛を編んで綱として、石を引っぱり積み上げました。(東本願寺においても、御影堂建造の際に女性信徒の髪の毛の綱が使用されました。その綱は現在、堂内に展示されています。) そして、同年8月21日、遂に発見できなかった九重目の笠石と頂の九輪石を補って優美な姿が再現されました。
 創建当時のものではないかも知れませんが、塔の最上部の九輪石は、今も興聖寺の庭園に見ることができます。 なお、伏見区の藤森神社の境内の手水鉢の台石は、見つからなかった塔芯が流用されたものといわれます。さらに、一説には、それは石川五右衛門が盗み去ったのだという説もあるようです。
 「浮島」の名は、塔のある中州が洪水に際しても水中に埋もれないことに因み、『都名所図絵』にも「浮舟ノ島」と称されています。現在は「十三重石塔」の島として、「塔の島」と呼ばれて親しまれています。
白川の“九重石塔”
 宇治には更に古い石塔があります。
 上写真は後冷泉天皇々后寛子の供養塔です。寛子は平等院を創建した藤原頼道の娘で、白川の里に金色院を建てました。また、92歳という長寿(1127没)をまっとうしたと伝えられます。これは昭和天皇々后の香淳皇后に続くものです。 白川には金色院総門、金色院跡、白山神社、地蔵院などがあり、当時の佇まいを今に残しています。
 さて、天治元年(1124)に完成した奥州平泉の中尊寺金色堂は白川の金色院をモデルにして作られたそうです。
平等院多宝塔跡
 1万円札や10円玉のデザインで知られる平等院には、かつて鳳凰堂以外に多くの堂塔が建てられていまいした。境内も今より広く、「鮎宗」に隣接したところまでありました。
 現在、当店と平等院の間は「多宝塔跡」として、ちょっとした広場になっています。この史跡は、平成6年の発掘調査で発見されたもので、鳳凰堂の基壇を参考に復元されました。 建立者は藤原頼通の娘、寛子で、塔が建てられたのは鳳凰堂建立の8年後(1061年)です。
 文献には多宝塔と記されていますが、珍しい単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されています。当時の平等院をうかがう貴重な遺跡の一つです。
(復元イラスト:早川和子さん



※ 福田会:
 福田会は明治37年頃、夏の風物詩「千灯供養」で知られる京都市右京区の化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)の無縁仏収集にも大変、尽力を果たしました。



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宇治紀行
その1
平家物語
「宇治川先陣争い」


その2
浮島十三重の石塔

その3
宇治の網代木


その4
宇治拾遺物語
「鼻」


その5
種田山頭火
“宇治平等院 三句”


その6
≈ 宇治 ≈ 秋の行事 ≈


その7
パワースティション
の町〜宇治


その8
冬の宇治


番外編
当店の桂垣


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