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★ The City of Power Station ≈≈≈ UJI
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古くは『万葉集』『古事記』『日本書紀』に始まり、『源氏物語』や『平家物語』の素材になった宇治は、いにしえより都の人々の心をとらえ、和歌に絵画にさまざまな作品が伝わります。柳、橋、水車、この三つが描かれていれば、それは宇治だといわれたほどで、特に有名なのが、安土桃山時代に長谷川等伯が描いた『柳橋水車図(りゅうきょうすいしゃず)』で、その典型的な作品です。
宇治の先人の里人の匠の技
徒然草 / 第五十一段
亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民におほせて、水車をつくらせられけり。多くの錢を給ひて、數日にいとなみいだしてかけたりけるに、大方めぐらざりければ、とかくなほしけれども、終にまはらで、徒らにたてりけり。さて、宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかにゆひて參らせたりけるが、思ふやうにめぐりて、水をくみ入るゝ事めでたかりけり。
萬に其の道を知れる者は、やんごとなきものなり。 |
宇治と水車にまつわるお話が吉田兼好の『徒然草』の五十一段に登場します。嵐山の大堰川の里人に水車を作らせたところ、うまくいかず、宇治の里人を召集して作らせると、容易く水車を作り、しかも見事に水を汲み入れたというものです。何事につけてもその道を究めた者はすばらしく、その専門家に任すべきだと、宇治の里人の水車作りの技術を称えています。
当時、宇治では宇治川の急流を利用して、筒車(つつぐるま)と呼ばれる水車が造られ、それによって平等院の阿字池や近隣の田畑に豊富な水を供給していました。柳に水車の風情こそ在りし日の面影を偲ぶばかりですが、豊かな宇治川の流れは今も健在で、宇治市には、宇治発電所、天ヶ瀬発電所、喜撰山揚水式発電所の三つ水力発電所があり、電力を供給しています。 |
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京都の近代化産業遺産 = 宇治発電所
京都府と滋賀県の共同出資により設立された宇治川電気株式会社により「宇治発電所」ができたのは、1913年(大正2年)のこと。1908年(明治41年)2月に着工。完成までには5年を要し、大陸からも多くの労働力が徴用されました。その重労働にたえかねて川畔まで逃げてきた労働者に鮎宗の先々代留吉は食べ物をほどこしたと、亡き叔母まさより聞いております。当時、宇治町は電気代が安かったといわれています。変電所が宇治橋通りにありました。その後、宇治川電気株式会社は戦中戦後の電力会社統廃合により関西電力株式会社となり、今も稼働しています。 |
宇治発電所につづいて、志津川発電所、大峰発電所が造られ、“おとぎ電車”も走っていましたが、1963年(昭和38年)天ヶ瀬発電所の完成により、これらは埋没しました。旧志津川発電所のレンガのたたずまいが吊り橋より上流の白虹橋たもとに残っています。大峰発電所は宵待橋の辺りにあり、当時の宵待橋は、川面に近く今より低い位置にありました。
また、近年までは巨椋(おぐら)池や宇治橋下流の黄檗あたりには水車がかけられていて、水田に水を供給していました。
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宇治発電所 (2006宇治灯り絵巻の時の様子) |
そもそも宇治発電所は琵琶湖との落差75mを利用したもので、瀬田川洗堰から支水した水でタービンは水車と同じようにタテに回転しています。宇治川の上流にあたる琵琶湖の瀬田は大阪城天守閣の高さがちょうど同じくらいで、瀬田川を渡る東海道新幹線はその天守閣の上程の高さを走っていることになります。
また、宇治市内にはユニチカ宇治事業所内にも天然ガスの自家発電設備が導入され、天ヶ瀬ダムと同量の電力を発電しているとともに、それは奈良県全域のガスの消費量とほぼ同じ量にあたります。
今もなお、そしてこれからも、宇治は“パワースティションの町”なのです。 |
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