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【159】調子に乗ってまた馬鹿話(長文ゴメンなさい)

佐藤亜紀(著作に『戦争の法』『鏡の影』 コワイ作家である)のエッセイ集
「でも私は幽霊が怖い」の中に「戦争について」というのがある。その中で作者は
「兵卒の回想はほぼ例外なく、おもしろい〜中略〜(それに対し)まるで駄目な回想は下士官から普通の将校の間に集中する」と書いている。
これはナポレオン戦争の話だが、前者は日常の目を通して戦争という非日常を描いているのに対し、後者は軍の『神話』にどっぷりと浸かっているからである。それは「文豪」と呼ばれる人も例外ではない。
『神話』それは〜戦うのは、一人ひとりの兵士であって指揮官ではない。それも命令ではなく、個々の兵士の意志であって、その戦いに参加した何十万の人々の意志で戦争は行われていた。そして、そこから織りなされる『歴史』には人知を超えた神秘の力が働いている〜というものである。ぶっちゃけていうなら「政治屋の思惑など知ったことか、前に敵がいれば戦うだけだ」で、ある。なお以上は本の正確な引用ではなく、自己流の解釈であり、以下もそれが続く。正確な内容は・・・・・・本で読んで欲しい。
 下士官の『視点』、それはガンパレでいうならば若宮や本田の台詞に代表される。そしてその上の、いわばプレイヤーとして実際に軍を動かす軍幹部の『視点』がある。それは準竜師に代表される。これは下士官とはかなり違ったものである。なにしろ本当の意味での『責任』を持つ者であり、欺瞞ではなく、「自分の軍」あるいは「国」と言える人達である(だから「負けた」時の事も考えなければならない。なお坂上はどのレベルに属するかは不明)
 ガンパレ全体としてはどうか? 悲劇的なシチュエーションやマキャベリ的現実も描かれているが、それはスイカにかける塩が甘味を引き立たせるがごとく『下士官』的戦争観を支えている。この下士官的戦争観あるいは軍の『神話』は、はなはだ通り一遍なものであるが、逆に通り一遍だからこそ、そのロジックの内部にいる者達に対し、この上のない『一体感』を与えてくれる〜この『一体感』〜これこそがクセ者である。
 そういう意味で幻獣は『理想的な敵』であるといえる。殺すことに基本的に罪悪感不要。『殺す/殺される』の二者択一(『許す』事はできても、勝つことが前提) 「愛するものが殺されたくなかったら戦え!」の世界。その悲壮感は太平洋戦争末期の日本を想像させるし、状況もそれに近い(あくまで私的解釈だが)
 そういえば「本」よれば、第一次世界大戦は「軍事技術の発達に気づかず、19世紀的士気万能論に基づいて、久しぶりにとことんまで戦った戦争」だそうだ、だから鉄条網や機関銃に向かって雄雄しく突撃し、莫大な死傷者を出した。特に言及もないが第二次世界大戦もそうであろう。
だが、現代においては、ガンパレでも似たような台詞はあったが「兵士一人あたりのコストがおそろしく高くなって」しまった。 その為、大戦やガンパレ式の総力戦はまず不可能になった。後方ならいざ知らず、軍人でも実際に戦えるのはごくわずかで、国民はそのコストを捻出する為に総動員されるという、おそろしくカルタシスに欠ける戦争になってしまった。国民が一体になって戦う戦争はいずこ? という感じだが、ここに一つの疑問がでる。ガンパレにおける幻獣は不可能を可能にした「みんなが一体感をもって戦える戦争」為の存在ではないか? と。
 いや、愚問だった。フィクションにおける『設定』はムードのために存在するのだから。しかし現実においても、ムード〜『一体感』の為の『状況』〜『戦時下』が求められたりしたら? それが怖い。
あえて言おう。現代戦において総力戦は余程のヘマをしない限りありえない。そしてそれは「戦力になり得ないものを戦力とする」負け戦である。こうした悲劇を悲劇として、愚行を愚行をとして認識せず「厳しい現実の中で精一杯頑張る姿」として感動し憧れるならば、それは喜劇である。
 
 ガンパレは面白い。でもこの雰囲気は嫌いだ。そして「何を偉そうに」と思ったアナタは正しい。これは私の感想。 削除1192

無職 堀井椎人一般人(撃破数:7
2001年1月20日19時44分59秒 

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