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二ヶ月ぶりにお風呂に入るお年寄りのお世話をした。入浴前、パジャマを脱がせると、背中じゅうに床ずれと汗もがあった。ところどころ血がにじんでいた。おしめを外すと、便がたまっていた。
一瞬目をそらせながら、心のなかで思わず「かわいそう」と叫んでしまう。 3年前、脳卒中で倒れてから、ずっと寝たきりだという。「私も出来るだけのことはしているんですが・・・」と、なきそうな顔で老いた奥さんがつぶやく。 「自分でお世話できないならどうして、老人ホームに入れないんでしょうか?」と、老人ホームの職員に尋ねた。 「見栄とプライドが邪魔し取る。」と一言。 病気ならいいが、老人ホームに入れると、家族が世間から非難されるとのこと。老夫婦と息子さん家族の六人家族。大きな一戸建ての家の一室におじいさんが寝ている。 数日後、おじいさんは亡くなった。食べ物をのどに詰まらせたのが原因だった。 高齢化時代を迎えようとする今、人生の最後まで人間が人間らしく生きるにはどうすればいいだろうか。
この論文は、高齢者の活力を子供との交流のなかで生かすことの具体的提案である。 私は、昭和六十三年の九月、あるユニークな取り組みをしている老人ホームで実習する機会を得た。 どちらかが、一方的に助けてもらうというのではなく、自然な形で、日々の交流のなかで、高齢者と子供たちがお互いに支え合っていきいきと生きている。 このモデルを参考にすれば、活力ある高齢化社会が実現できるのではないだろうか。 では、その江東園の事例を以下紹介していく。
江東園は、東京江戸川区のある社会福祉法人である。 特別養護老人ホーム(定員五十人)、養護老人ホーム(定員五十人)、保育園(一才〜五才、定員八十人) が同じ屋根の下に同居する複合施設である。 三階の特別養護老人ホームには、車いす、あるいは、寝たきりのお年寄りが多い。 二階の養護老人ホームは、家庭的、経済的な理由で施設に来られたお年寄りが多い。 そして、一階に保育園があり、八十人の子供たちが走り回っている。
朝のラジオ体操は、子供たちと、その日体調がいいお年寄りが一緒に行う。 「おはようございまぁ―す」という大きな声のあいさつに続いて、「おじいちゃん、おばあちゃん、げんきですかぁ―」という子供たち八十人の大合唱が、こだまする。 それに答えて、「元気ですよォ〜」というお年寄りの声がこだまする。 この時、お年寄りたちは、バンザイのかっこうをしたりして、なんとか子供たちに元気さを証明しようとする。 右半身がマヒしているおばあちゃんも、一生懸命に左手を振って、子供たちの呼びかけに答えようとする。 このようにして、江東園の一日は始まる。 ラジオ体操が終わると、子供たちは一斉におじいちゃん、おばあちゃんの所へ駆け寄る。中には、車いすのおばあちゃんのひざの上に乗る子供もいる。 「おばあちゃん元気?」と子供たちが愛らしく尋ねる。 車いすの、おじいちゃんやおばあちゃんたちの、うれしそうな顔が印象的だ。 『朝の体操に出ないと、“石田のおじいちゃん、どうしてこないの?”と心配して、子供たちが、ベットまで見に来てくれるんです』と石田静吉さん(九十才)はうれしそうに語ってくれた。
伊藤ふめさん(八十五才)は、元お琴の先生で、上品な女性だ。 「ここまで来るまでは、老人ホームに入るくらいだったら、死んだほうがマシだと思っていたの。でも最近はそうじゃないの。 ゆうくんという子が私になついちゃって、いつも遊びに来るの。騒いで昼寝をしないゆう君を、私のベットの中で添い寝をさせたこともあるの。 ゆう君が、私のベットで寝たのよ! 私は、子供 を持ったことがないから、子供に自分自身が好かれるなんて思わなかったの。 最近私、長生きがしたくなったの。ゆう君が大人になった姿が一目見たくって」と、本当にうれしそうに語ってくれた。
この施設では、毎日、子供たちが寝たきりのお年寄りのベットの横に行って、折り紙やお絵かきをしたりする時間がある。 そんなとき、寝たきりのお年寄りの目からふと涙がこぼれる。 子供の数が減少しつつある昨今、江戸川区では、平均すると。保育園の定員に対する充足率は約七割である。 しかし、この保育園は、毎年八十人の定員に、百人以上の応募がある。おじいちゃんやおばあちゃんを大事にする思いやりのある子に育つと言うことで人気があるからだ。 園児のお母さんにも尋ねてみた。 『“おじいちゃんに折り紙もらった”とか、子供がうれしそうに家で話をしますよ』
保育園児たちの家庭の大半は核家族。入園前までは、日常的にはおじいちゃんやおばあちゃんと接したことのない子供たちばかりだ。 だが、尋ねてみると、「ボクおじいちゃんやおばあちゃん大好き」という答えがどの子供たちからも返ってくる。車いすのひざの上にのってはしゃいでいる子供たちもいる。 大人より子供のほうがはるかに偏見なくお年寄りとつき合っている。 「入園したての子供たちは、親と離れることに慣れないで、三か月ぐらい泣き続けるのが普通でした。でも、老人ホームと一体になってからは、おばあちゃんたちが、服の着替えなども手伝ってくれるので、一か月半ぐらいで泣きやむようになりました。私たちも大助かりです。」と保母さんたちも大喜びだ。 共働きの家庭が増え、子供の世話をどうしようかと悩む人びと。 その一方で、生きがいを失いつつある高齢者。 この両者をくっつければ、お互いが支え合う活力ある地域社会が形成できるのではないか。 では、具体的に以下二つの提案を行いたい。
以上の提案は、次の三つの意義を持つ。
二十世紀は競争・成長の時代であった。経済合理主義の元、高齢者は隔離される傾向にあり、社会の中での役割もますますなくなりつつある。 しかし、二十一世紀は、「世代間の支え合い」の時代だ。その時代に何よりも必要なのは、子供と高齢者の交流である。 福祉先進国と言われるイギリスやスウェーデンでも解決できなかった高齢化問題を解決する可能性を日本は持っている。 高率の税負担のもと、年金・住宅政策をいかに充実させても、高齢者の「生きがい」という問題に対応できず、福祉先進国は、今、悩んでいる。 お金と住宅と健康がそろっても、スウェーデンでは、ベンチで一日中手持ちぶさたに暮らす人が多いという。 わが国はいま、「敬老の国」になるか「軽老の国」になるのか岐路にある。日本 のこの取り組みが、世界のモデルになれば、人間を大切にする国家として、国際的な評価も高まるだろう。
京都の高齢化率は上京区(16.8%)中京区(16.6%)下京区(17.7%)東山区(18.0%)と全国平均の10.8%(昭和60年現在)をはるかに上回り、すでに高齢化の「先進国」となっている。 コミュニティ的要素が多く残っており、人情味豊かな京都。京都は福祉が育つ基盤がしっかりしている。また、昔から、市電や疏水を始め、京都には進取がみなぎっていた。 全国に先駆けて、京都を敬老の精神のあふれる街にしようではないか。 思いやりのある子供を育て、同時に、高齢者が地域の子供の面倒を見る。 良き文化・伝統を後世に伝えるという社会的役割を負って、高齢者がいきいきと生きる。 そんな街に京都をしよう。 情報化時代のメリットは、いいものはすぐに日本中に拡がり、まねられるということだ。京都を高齢化社会のモデル都市にすれば、日本全体に波及していくにちがいない。 高齢者が大切にされ、生き生き暮らせる社会。それは、人間だれでもが大切にされる温かくかつ活力のある社会であるはずだ。 日本が世界に誇れる最大の資源は「ひと」である。 二十一世紀の高齢化時代に向けて、思いやりと敬老の精神にあふれる「ひとづくり」を京都の街から始めようではありませんか。 |