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AERAMOOK 「文化学がわかる」Number77,2002
2002年3月10日朝日新聞

生きる歓び------ライフサイクル文化論5

老い

寝かせきり老人、
この日本的なる「姥捨て文化」

「北欧には、寝たきり老人がいない」-----そんな話を初めて聞いたのは、私が財団法人・松下政経塾の研究員として、日本全国の老人ホームを実習して回っていた、12年ほど前のことになります。1988年当時のデータでスウェーデンでは長期ケア施設における「寝たきり老人」の割合は4.2%であるのに対し、日本は33.8%。これは先進国の中で、最悪の数字でした。

一度自分の目でそれを確かめようと、世界7カ国を約8か月かけて回り、そのときの経験を『体験ルポ・世界の高齢者福祉』(岩波新書)にまとめました。このときに私は、『寝たきり老人』はむしろ「寝かせきり老人」、つまり福祉やケアが行き届かないための人災であると痛感しました。あれから10年以上経ちますが、残念ながら、日本の老人介護の実態に関して言えば、まだまだ問題が深刻です。

世界の中で「寝たきり問題」が大きいのならわかりますが、なぜ日本だけが突出してこの問題を抱えているの。

実は「寝たきり老人」というのは、裕福で、医療が進歩していて、かつ平和な国でだけ起こる問題です。バングラデシュに1ヶ月行って、老人福祉の調査をしたことがありますが、あの国では「老人福祉」など存在しない。60歳くらいまでに多くの人が死んでしまうからです。スウェーデン留学中に知り合ったイランやイラクの友人に聞いても、平均寿命は60歳だと言っていました。貧しい国では、寝たきりや痴呆症になる前に死んでいるわけで、高齢者問題が深刻な国は裕福な国ということになります。

スウェーデンで高齢者福祉が発達した理由にも、第一次、第二次世界大戦に参戦せず、長く平和が続いたため、高齢化社会が他の国よりも早くおとずれたという歴史的背景があるのです。

つまり、日本も戦後、高度成長を達成し、豊かさを享受することができるようになり、当然医療も進歩しました。そこで、欧米の先進国のように、豊かさと医療の進歩に比例して、介護や福祉制度が発達していれば、寝たきり問題は生まれません。ところが日本は、国が豊かで医療保険も完備しているにもかかわらず、異常に福祉が遅れているのです。ここには、日本独特の文化的背景があると思います。

福祉を遅らせる
「おしん文化」と『根性福祉』

  コラム(この日本独特の「寝たきり問題」の背後には、根強い「男女不平等問題」が見え隠れします。)

日本には「年をとった親の老後は、家族だけで看るべきだ。嫁が看るべきだ」という、儒教道徳を背景にした文化があります。私はこれを「おしん文化」、そしてそれに依存した、遅れた福祉を「根性福祉」と呼んでいます。歯を食いしばって、優しく献身的に「根性」で舅・姑の介護をするのが「嫁の鑑」であるという文化が、「「福祉サービス、介護サービスを利用するのは、悪い嫁だ、親不孝だ」という考えにつながって、福祉充実にブレーキをかけてきたのです。

介護は、24時間体制の重労働。しかも、寝たきり老人の介護者の平均年齢はほぼ60歳で、その9割が女性です。体力的な問題から言っても、介護を嫁/女性まかせにすれば「寝かせきり」にしてお世話せざるを得ないのです。

この日本独特の「寝たきり問題」の背後には、根強い「男女不平等問題」が見え隠れします。「家族だけで老後を看るべきだ」という議論も、ほんとうに介護を支えている女性が言うなら、それなりに説得力もあります。しかし、強硬にそれを主張するのは、えてして、家事もしていない、ほとんど家では寝るだけのモーレツ社員的な男性が多いのです。こういう人が「家族が介護すべき」と言うときの「家族」には、男性である自分は計算に入っていないのです。

こういうタイプの男にとっては「家庭」というのは「奉仕してもらう場」。自分が奉仕して介護に参加するという発想は全くありません。「老後、親が弱ったら家族が看るのが当たり前」というルールが崩れることは、とりもなおさず男性に都合のいい家族幻想が崩れるということ。それを男性は恐れているのではないでしょうか。

ですからこの問題は実は根が深い。「嫁」という字は女偏に家と書きますが、女性が事実上家から解放される日が、日本で「寝たきり問題」が本当に解決する日ではないかと、私は考えているわけです。

同居とひとり暮らしどちらが孤独か

 弱ったお年寄りが家族と同居しさえすれば幸せかというと、これには疑問を投げかけざるを得ないデータがあります。1994年の国民生活白書で見ると、老人の自殺率が一番高いのは、三世代同居のケース、一番低いのはひとり暮らしの老人です。日本の老人の自殺率の高さは世界でもトップレベル。自殺理由の多くは「病苦」となっていますが。実際は「家族関係のもつれ」にあると言われています。自分が家族の負担になっている、疎まれているという気持ちが、老人をしに駆り立てます。人間は一人ぽっちの孤独には耐えられても、人といっしょにいて邪魔者扱いされているという孤独には耐え切れないものです。

最近の調査で「介護している親に対して憎しみを感じるか」というのがあり、3人に1人は「憎しみを感じる」と答えていました。介護期間が長い人ほど憎しみを感じやすい。また、「介護がきっかけで同居に踏み切った」というケースの場合、憎しみを感じる割合が高いという結果も出ています。

高齢者福祉に携わっていると、同居した親を虐待しているというケースを見ることもありますが、つらいのは、けっして冷たい人間が虐待しているわけではないということ。「親を大事にしたいと思って引き取った。ところが介護が2年、3年と続くうちに、身も心も疲れ果てて、気がついたら寝たきりの母親のお尻をつねってオムツを換えるような鬼娘になっていた」と泣いていた娘さんもありました。長期の介護は、愛を憎しみに変えてしまいます。もちろん、同居してうまく行くケースがあることは否定しません。しかし、「老いは家族が看るのが当然」という文化だけでは乗り切れない現状が、目の前にあることを認識しなければならないと思います。

日本はお年寄りとの同居率がほぼ50%、アメリカで10%くらい、スウェーデン、デンマークは2%ほどです。三世代同居がないスウェーデンでは、お年よりはほとんどが老夫婦世帯か一人暮らしです。

私は918月から2年間、高齢者福祉を勉強するためにスウェーデンに留学しました。その間、会う高齢者ごとに「家族と離れて暮らして寂しくないか」という、長年の疑問をぶつけてみたのです。すると10人中10人が「同居は絶対イヤ。べったり子供に面倒を見てもらうくらいなら、死んだほうがまし」と答えました。日本人はこういった欧米のお年寄りの独立心の根拠を、キリスト教や、個人主義の伝統といった「西洋的な文化」に求めがちですが、そうとも言い切れません。

実は、スウェーデンでも30年ほど前は、嫁が舅・姑の介護をしていた時代がありました。ところが、人間関係がうまく行かずに社会問題になってしまった。その反省を踏まえて、家族だけに頼らず、社会が老人介護を負担するシステムを作ってきたのです。

また、スウェーデンの家族は、老いた親の近くに住み、週末は一緒に過ごすという「近居・交流型」がほとんどです。適度な距離を保ちながらお互いを大切にするという家族のあり方も、高齢社会という新しい現実に対処するために、試行錯誤を経て作られたものだと思われるのです。

 

老いとの共存か「姥捨て文化」か

コラム(明るい老後は、社会全体がそれを支える体制が必要。高齢者側も意識革命をしたほうがいい。)

スウェーデンのような「近居・交流型」の家族関係を実現するものとして、街中にある老人ホームの存在があります。日本の老人ホームや老人病院は、街外れ、山奥にあることが多い。日本的な「老い文化」で言うと、古くから「隠居」という考え方があって、老いた人は社会から隠れてもらおうという発想があるのです。欧米では、比較的街中が多いと思います。老人ホームの場所を比べれば、その国の敬老の心、「老い」に対する気持ちが計れる。「老いを排除する社会」と「老いと共存する社会」の違いです。これから高齢社会を迎えるにあたって、「老い」を排除する思想は自己矛盾を抱えます。車椅子や痴呆症のお年寄りを自分たちの前から隠していく社会を続けていけば、いずれは自分も隠されることになります。

また、日本人は将来を担う子供にはいくらでもお金をかけますが、老人福祉にはあまりお金を使いません。モノを生産することができる人が大事にされるのが日本の社会で、介護を必要とする老人というのはお金がかかるばかりでモノを生産する能力は低い、だから切り捨ててします。私はそれを「切り捨て教」と呼んでいますが、「集団や組織の利益を守るためには弱者を切り捨てる」という発想が介護の問題の根底にあります。

「老い」を社会から排除する「姥捨て文化」というのは、実は日本でなくてもどの国にもあるものです。福祉国家のモデルとされるスェーデンにも、貧しかった19世紀まで、「姥捨ての丘」という場所があり、弱って働けなくなったお年寄りを崖から突き落としたというのです。一人でやっては罪悪感が残るので親戚一同全員で一本の長い棒を持って、その棒で突き落としたと。その「姥捨て棒」というのが、博物館に展示されています。貧しい国では、それが現実なのです。

ただ、200年も300年も前の貧しい国の話ではなく、これだけ豊かになり、医療が進歩した日本で、まだ「姥捨て」や「切り捨て教」で『老い』に対応していていいのでしょうか。ここに、「老い」というものを日本人はどう受け止めるのかという、重大な課題が問われているのです。

 

恨み骨髄で死なないために

コラム(日本人的な滅私奉公は裏目に出ます。)

ここで重要なのは「『老い』をプラスとるかマイナスととるか」です。欧米のお年寄りと話していると、「老い」に対する期待度が日本人より高い。どちらかといえば待ちどおしいものとすら言えます。

私がスウェーデンに留学していたころ、大学でいっしょのクラスにヨハンナさんという79歳の女性がいました。彼女は「老後は人生のおまけではない。人生の本番だ」と言いました。若いときは、仕事、子育てなど、しなければならないことがたくさんあった。でもいまは、一人暮らしで自分は自由だと。好きな勉強をして、「老いと師」について論文を書き上げ、その晩一人でワインを飲んだ。人生最高の瞬間だったというのです。

日本人にとって人生における幸福とは、長い間「働くこと」でした。だから、年を取って働けなくなると「人のために働けないなら、社会から切り捨てられても仕方が無い」と悲観してしまいます。この滅私奉公の思想は、老後、裏目に出ます。「自分が楽しむのが人生だ」という価値観に転換しないと、老後はつらいのです。

自分の人生を楽しむ明るい老後は、家族だけではなく社会全体がそれを支える体制を作ってはじめて実現します。イギリス、スウェーデン、デンマークでは、「高齢者福祉」(welfare for elderly)と言わずに、「高齢者向けサービス」(social service for elderly)と呼んでいます。その理由は、英語の「福祉」(welfare)と言う言葉に、救貧的な「お恵み」「お情け」という暗いイメージがあるからです。日本で介護サービスというと、おばあさんが「すみません、すみません」と謝りながらサービスを受けているイメージがありますが、欧米のお年よりは「若いときに社会に貢献したのだから、介護サービスを受けるのは当然の権利だ」と、明るく言います。

これからは、高齢者の側も、早く意識改革をしたほうが勝ちです。「あんなに家族のため、子供のためを思って働いてきたのに、年を取ったら老人ホームに入れられた」と恨み骨髄で死ぬより、「長い介護生活で家族共倒れしたら元も子もない。私は高齢者福祉サービスを有効利用して自立した老後を送ろう」というくらい、「老い」に対する心の準備をしておきたいものです。

高齢化社会の「老後」は長い。10年くらいなら「人生のおまけ」と思って乗り切れますが、それが20年、30年も続きます。いま突きつけられているのは、古い道徳や価値観では乗り切れなくなった新しい時代の「老い」に対して、私たち日本人が、人生を豊かに終えるためにどのような文化を創造することができるのか、意識改革ができるのかという大きな課題なのです。

(インタビュー・構成 中島京子) 


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