。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆

   やまのい和則の
     「軽老の国」から「敬老の国」へ

     - Yamanoi Kazunori Mail Magazine -

            第111号(2001/03/12)

    。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆〃。☆

 メールマガジンの読者の皆さん、こんにちは。3月10日、いま
札幌です。北海道での介護保険シンポの報告と、私の福祉への思い
を書きました。長いメールマガジンですがお許しください。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 3月10日土曜日
 札幌で、民主党北海道主催の介護保険シンポ(2時間)で、基調
講演とパネリストとして参加。横路孝弘議員、金田誠一議員も登場。

ホームヘルプの事業者からは、「ホームヘルパーの待遇が悪すぎる。
パートでしか雇えない。常勤でホームヘルパーとして働けるように
介護報酬をあげてほしい」という声があった。

また、介護者代表の発言は、「在宅介護で苦労したが、いまは姑が
グループホームに入り、姑も『第二の家庭』で居心地がよさそう。
自己負担は月14万円」とのこと。

札幌でも痴呆性高齢者向けグループホームの自己負担は、特別養護
老人ホームなどの2倍だと知った。

      ☆      ☆      ☆      ☆

 私はこのメールマガジンにも書いているように、あまりにも多く
の分野の仕事をしているので、介護保険から頭が遠ざかってしまっ
ていた。だから、この2時間のシンポは勉強になった。

厚生労働省の雰囲気は、「2年後の介護報酬の見直しまで、介護保
険についての議論は少し休憩。これからは医療制度改革が中心!」
という感じです。

介護保険もしっかり見直してほしいと思う。

      ☆      ☆      ☆      ☆

 この介護シンポの最後に私は次のような趣旨の持論を訴えた。
非常に長くなるが、私の根本的な問題意識なので、お目汚しになる
がお目通し頂きたい。
 
      ☆      ☆      ☆      ☆

 札幌に象徴されるように、日本は世界一、人口あたりの病院の
ベッド数が多い。しかし、特別養護老人ホームやグループホーム、
ホームヘルパーは諸外国に比べて非常に少ない。

そして、病院に長期入院、社会的入院するお年寄りも世界一多い。
なぜだろう?

 こんな疑問について、世界の福祉現場を3年まわり、過去10年間
私は研究してきた。つまり、日本では病院は多く、介護は遅れて
いる。

 その理由は、1970-80年代の『福祉国家批判』にあると思う。

つまり、スウェーデンやイギリスを『先進国病』『福祉国家病』と
呼び、当時、経済が悪化したヨーロッパ諸国を日本は『反面教師』
とした。

つまり、福祉に力を入れて、弱い人を大事にしすぎると、税金が
高くなって、みんな働かなくなって、経済活力が鈍りますよ。
だから、福祉はほどほどにしておいたほうが経済は上向くのです、
という考え方です。

「福祉亡国論」である。

 このような考え方から、日本は福祉や介護の充実を軽視した。
しかし、その結果、なにが起こったでしょうか。
負担は低くなったでしょうか。

答えはノーです。

 なぜなら、『福祉は経済の足を引っ張る』と言って、福祉充実に
ブレーキをかけた分、実は、病院を増やして、お年寄りを老人病院
などの病院で面倒をみるという世界に例を見ない『割高な高齢化対
策』を日本はやってしまったのです。

福祉や介護を充実させ、本当に治療が必要な人だけが必要な期間入
院するという方法を日本が、20年前に選択していたなら、今より
も安い社会的コストで、寝たきり老人は半減させることができたと
私は思います。 

 福祉や介護を遅らせた分、日本は非常に医療費をムダ使いしてし
まいました。

 さらに、『福祉にお金をかけると高負担社会になる』と福祉を批
判しながら、政権与党は、バラマキの公共事業を続け、660兆円も
の借金をつくり、結果的には世界に例を見ない高負担社会、いやそ
の負担を将来につけまわすという最も「悪質な高負担社会」をつく
ってしまいました。

 一方、福祉や介護は立ち遅れ、老後の不安が原因で、高齢者の
貯蓄が増え、ますます消費が鈍り、景気は低迷しています。

 こんなことなら、過剰な病院をつくったりせず、バラマキの公共
事業をせずに、20年前からしっかり必要な福祉や介護を充実させ
ておいたほうが、よほど安心感の高い社会をより少ないコストで実
現できていたと思います。

ただ、私は医療費が少なければよいとは思いません。
もっと増やして質を高めるべきだと思いますが、とにかく病院の
ベッドは多すぎます。 

 「公共事業」という「公共」の言葉がクセモノ。「公共事業」と
いう名のもとに、諫早湾の干拓に象徴されるような、単なる一部の
ゼネコンへの利益誘導をして、結果的には、環境を破壊し、漁業を
破壊し、2500億円をムダ使いした。

このような事業がどうして「公共事業」と言えようか。

諫早湾の干拓なんか、「公共の利益に反する事業」ではないか。

それを全国の国民の血税でやり、あるいは、将来の世代へのツケで
やることは許せない。

逆に、医療や福祉・介護のほうが、よっぽど「公共事業」ではない
か。

おまけに、従来の建設型公共事業よりも、福祉や介護のほうが同じ
額を投資しても雇用を生み出す効果は2倍であることがわかってい
る。

      ☆      ☆      ☆      

 私は不思議でならない。特別養護老人ホームやグループホームや
ホームヘルパーを増やそうと言うと、
「負担が増えて経済活力が低下する」と批判を受けるのに、なぜ、
諫早湾の干拓などで税金をもっとムダ使いし、負担が増えても、
「景気対策のため仕方ない」ととるのか。

      ☆      ☆      ☆      

 ハコモノの公共投資よりも、「人材投資」こそが21世紀には大切
だ。

人への投資によって、老後の不安と雇用の不安をやわらげ、社会の
安心感を高めることことが、結果的には消費も高め、急がば回れの
景気対策にもなる。

      ☆      ☆      ☆      

 20世紀の失敗は、福祉などへの投資、つまり、
「弱い人のためにお金を使うこと」が経済の足を引っ張るという
偏見を日本人に植え付けたことだ。

しかし、以上述べたように、福祉や介護を充実させ、社会の安心感
を高めることは、消費を拡大させ、雇用を生み出すうえでも有効な
景気対策だ。

私の尊敬する岡本祐三先生がかねてから主張しておられるように、
「福祉は経済のお荷物ではない」というように日本人が意識改革を
し、
「安心できる福祉があってこそ、景気も回復する」
「福祉への投資は景気対策である」考えを広げるべきだと思う。

      ☆      ☆      ☆      

 「福祉に力を入れると高負担社会になる」と言いながら、実際に
は、介護の遅れを病院で肩代わりしたり、バラマキの公共事業を増
やしたほうが、よっぽど負担が増えてしまったではないか。

公共事業として福祉や介護に力を入れて、バラマキの公共事業を抑
えていたほうがよっぽど負担は少なく、雇用効果も高く、安心でき
る社会が築けていたではないか。

それが私は残念でたまらない。

      ☆      ☆      ☆      

 また、「アンチ福祉論」を訴えた人々は、
「福祉は人を怠けさせるからケシカラン」と言いたかったのかもし
れないが、少なくとも
「介護サービスの充実」により、勤労意欲が低下することはない。

逆に、介護サービスの遅れが原因で、仕事を辞めて家族を介護せね
ばねばならぬ人が増えるくらいだ。

      ☆      ☆      ☆       

 つまり、日本は「アンチ福祉論」「福祉亡国論」という根拠のな
い俗説によって、20年も高齢化対策が遅れたばかりでなく、経済
活力も鈍ったというのが私の見方である。

 これは、お金の問題だけではない。

「福祉を充実させて、弱い人間を大切にすることは、怠け者を増や
す」という考え方は、気がつけば、日本を非常に冷たい社会にして
しまったのではないか。

「競争社会から協力社会へ」(東大の神野直彦先生)と日本を変え
ていくことが政治の責務だと思う。

      ☆      ☆      ☆      

 「福祉亡国論」の最大の罪は、「弱い人々を守る」という本来人
間にとって非常に素晴らしい行為をあたかも、悪いことであるかの
ようなイメージを植え付けたことである。

もちろん、甘やかし、自立を遅らせるのはよくないが、「弱い人々
を守る」「人間は助け合うものだ」というマインドが今の社会には
欠けていると思う。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 前にもこのメールマガジンに書いたかもしれないが、私のかねて
からの思いは、日本を「キリステ社会」から「キリスト社会」にす
ることだ。

迷える子羊の話がある。

私の勝手な解釈だが、100匹の羊の集団から1匹でもはぐれた場合、
99匹はそのはぐれた1匹を探し、見捨てない。

なぜならば、1匹の迷える子羊は、将来の自分であるから、みんな
は見捨てない。

これが「キリスト社会」(私はクリスチャンではないので、正確な
意味は実は知らない)。

しかし、「キリステ社会」では、「足手まといの子羊にかまってい
たら、集団のスピードが鈍る。

集団や組織の利益を守るためには、1匹の子羊には犠牲になっても
らうのは仕方ない」という考え。

滅私奉公的な考え。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 しかし、高齢社会とは面白い社会。なぜなら、強者もいつかは年
をとり、介護が必要になり、弱者になる。その時に、今まで切り捨
てる側であった人間が、人生の最後に切り捨てられる側になるのだ。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 これは高齢者福祉の問題ばかりでない。子供のいじめや虐待、
年間3万人近い自殺者、また、ひきこもり問題など・・・・。

すべてが行き過ぎた競争社会という日本社会の病の犠牲者ではない
か。

いつの時代も社会の病は、最も弱い立場の人間を直撃する。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 このように書くと、「そんな甘いことでは、日本の国際競争力は
保てない」とお叱りを受けるかもしれない。

しかし、逆に、雇用や老後の不安で消費が鈍り、貯蓄が高まり、
人と人とのふれあいや人間の健康が脅かされている日本の現状こそ
が、国際競争力を弱めているのではないだろうか。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 あまりにも長いメールマガジンになりすぎて、読者の皆さんに
大変ご迷惑をおかけしてしまった。

しかし、私はこのような根本的な
「日本の社会をどっちの方向に持っていくのか」という議論こそ、
政治の場でしっかりせねばならないと思う。

 私は、安心社会、協力社会でこそ、人間は健康であり、元気が
出て、活力が出て、生産性もあがり、景気も回復すると思う。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 最後に私が座右の銘にしている言葉を書きたい。

「この子らを世の光に!」という言葉だ。

知る人ぞ、知る。そう、日本の障害者福祉の父とも呼ばれる
故・糸賀一雄先生の言葉だ。

重度の障害児たちの施設を運営しながら、糸賀氏は、「この子らに
世の光を!」ではなく、「この子らを世の光に!」と訴えた。

重度の障害児の存在こそが、世の中を明るくする、世の光だ、とい
うのだ。

      ☆      ☆      ☆      

 私は学生時代に、家庭が崩壊した子供たちの福祉施設でボランテ
ィアをしながら、糸賀先生の本を読み漁り、そして、この「この子
らを世の光に!」という思想に触れてしびれた。

なんて素晴らしい思想だろう。

「かわいそうな子供たちに世の光を!」ではないのである。

 そして、糸賀先生は、最期の日にも「この子らを世の光に!」と
講演で訴えながら、倒れて帰らぬ人になったのである。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

 重度の障害児にお金をかけることを、「負担が増える」「もった
いない」と考えるのか、「この子らを世の光に!」と考えるのか。

いま、日本の社会にそして、政治に欠けているのが、「この子らを
世の光に!」という思想である。

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

痴呆性高齢者や障害者のグループホームを小学校区に1つつくる。
心身に障害のある方が地域で暮らせるようにし、そのような弱い立
場の方々こそが世の光となるような社会をつくりたい。

そんな夢を私は持っています。

 以上、非常に長くなってしまいましたが、今日のメールマガジン
を終わります。
                 やまのい和則 拝

☆      ☆      ☆      ☆      ☆ 

追伸:3月12日月曜日
終日、大阪であいりん地区などのホームレス問題の現地視察を行い
ます。また、報告します。
==================================================

2001年3月12日現在 読者数 1173


戻る