其の一<考へることには何が必要か>
 
 昨今の教育方針は「考へる力の育成」に重點を置いてゐる。其の爲に履修課程を輕減し、生徒にゆとりを與へやうする。將來的には學校へ行く日を週三日にするともいふ。これは智識重視に基づく暗記教育への反省であり、子供を伸び伸びと成長させやうとする動きである。しかしながら此の改革は、果たして妥當なのであらうか。
 そもそも考へる行爲とは、自己の想念を智識に照らし合はせ、其の妥當性を判斷することである。智識に基づいて決斷することが考へることなのであり、決斷の伴はない思考はただの妄想でしかない。妄想に浸つては現實を生きていくことは敵はない。眞つ當な思考力を身に着ける爲には智識の獲得が必須である。先人の傳記や自敍傳の中には、彼が大いに悩み苦しんだ時、新しい書物や人物に出逢つて其處から脱却したといふ話が頻繁に見受けられる。悩むといふことは、信頼の置ける智識を持たないことに起因するのである。
 此の事は論語の中でも語られてゐる。
 
衞靈公篇「子曰、吾嘗終日不食、終夜不寢、以思。無益。不如學也。(子曰く、吾嘗て終日食らはず、終夜寢(い)ねず、以て思ふ。益無し。學に如かざるなり。)」
 
 此の事からすると、今の教育改革が效果を納めることは難しいことと思はれる。智識を持たない人間は、思考力もまた不十分でしかない。更には以前の詰め込み教育に對し、考へることの重要性を指摘したことも何ら進展性がない。論語の一節にかうある。
 
爲政篇「子曰、學而不思則罔。思而不學則殆。(子曰く、學びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し。)」
 
 學ぶことと考へることとの兩立は、遙か二千年以上も昔から言はれてゐるのであり、現在のこの動勢は今漸く孔子に追いついたと云へる。現在に於ける教育界の昏迷は、教育者がこの常識を知らなかつた故に生じたものなのである。孔子は西洋のソクラテスと竝ぶ、教育者の先鞭である。其の言を念頭に置いてゐないものには、そもそも教育者の資格はないであらう。