『障害者問題研究』1984年・第36号所収  【報告】        視覚障害者と戦争                               岸 博實(京都府立盲学校)    はじめに  30万人もの中国人民を殺戮したいわゆる南京大虐殺が開始されたのは1937年暮であった。 日本軍は12月12日に南京を支配下におき、悪魔の手を血に染め始めた。  その2日前の12月10日付で発行された点字文集「塔影第6号」が今も残っている。これに は当時の京都府立盲学校生徒のおよそ半数にあたる71名の作品が載っており、そのなかに初等 部1年生が書いた次の一文がある。  「シナニ ヰラッシャル ヘイタイサン、オクニノ タメニ、ワタクシタチノ タメニ、ハタ ライテ クダサル コトヲ ヨロコンデ ヰマス。マイアサ、テウクワイデ、カウチャウセンセ イニ、センソウノ オハナシヲ キキマス。ドウゾ、シナジンヲ タクサン コロシテ、ヨイヒ トニ シテアゲテ クダサイ。ヘイタイサンガ タッシャデ ヰテ クダサル ヤウ、オイノリ シテ ヰマス。ヲハリ」  45年余を経て、今、幼気な少年に「タクサン コロシテクダサイ」と言わせ、それに日もお かず応えてみせた時代が、「海峡封鎖」だの「浮沈空母」だのといったおぞましい言葉によって 呼び戻されようとしている。  本年1月9日、京都府立高等学校教職員組合障害児教育部は、「障害者と戦争を記録する会」 を発足させた。京都府立盲学校分会でも、それに呼応して、文献・文書の掘りおこしと卒業生へ の聞きとり調査が準備されてきた。聞きとり調査は緒についたばかりでとてもまとめられる段階 ではないが、いくつか貴重な史料がみつかっているので、本稿ではそれをもとに「戦時体制と成 人視覚障害者」の問題を考えてみたい。戦時下の障害者問題、あるいは、障害者問題の視点から みた侵略戦争の本質に一歩でも迫れれば幸いである。史料からの引用が多くなる点をあらかじめ おことわりしておきたい。(なお、引用にあたって、旧漢字は現代表記に改めた。)    1 眼が悪くては銃はうてない  まず、戦時体制は人間の眼をどう価値づけていたか。ある医学書がそれを教えてくれている。  「一億の国民が火の玉となって勝ち抜く為め(ママ)に、先づ大切なのは眼である。眼が悪く ては銃はうてない。飛行機には乗れない。日本には七万の盲人がある。十二月八日宣戦の大詔を 拝した時、この七万の盲人ほど残念に思ったものはなかろう1)。」  つまり眼は、精密な武器≠フ一部品にほかならなかった。当時の眼科医学は兵士としての 規格≠ノ合格しない眼のもち主に対して「視力増強運動」を呼びかけさえしたのである2)。    2 眼病の多きをみそなはし  戦時体制は眼の重要性に着目して、トラホーム予防協会や視力保健連盟を組織し、1939年 には、9月18日を「眼の記念日」と定めている。しかし、こうした失明防止事業のねらいはあ くまでも優秀な兵器としての眼の確保にあった。「眼の記念日」にいたっては、失明防止より以 上に天皇崇拝の徹底が制定の本旨であった。明治11年、天皇が新潟に行幸した際、「沿道に眼 病者の多きをみそなはし、眼病の治療と予防に有難き御沙汰を賜はった3)」日の記念というの だから。  軍部と天皇制の意向に沿った施策ではあっても、トラホーム対策や開眼診療が眼病患者に一定 の恩恵をもたらしたことは否定できまい。しかし、現実には「健康で文化的な生活」を踏みにじ ってはばからない戦争政策がおし進められていたのである。失明の原因は銃後にも前線にも足の ふみ場がないほどころがっていた。不衛生、栄養不良、結核、毒ガス、焼夷弾、地雷、爆風、小 銃弾・手榴弾・砲弾の直撃、そして不発弾。枚挙にいとまがない。結局、国民はありとあらゆる 危険にさらされ、光を奪われたというのが戦時体制下の主要な側面となった。    3 その瞬間である。轟音が  戦争は人間を殺し、障害者を大量につくりだす。日中戦争、太平洋戦争はわが国民衆のそうし た経験の頂点となった。経済安定本部の調査によると、死者は1,854,914人、負傷行方不 明者は654,222人にものぼっている。この負傷者の中には、治療もむなしくその後の人生 に視覚障害を背負いこまねばならなかった人も多い。  まず、銃後の被災者に語ってもらおう。はじめに橋本時代さんの証言4)。「(略)私たち洛 北実務女学校の生徒四十名は、勤労学徒として舞鶴海軍工廠に動員されました。(略)工場での 作業は、そのころ愛国心にもえていた特攻隊の人たちが使う人間魚雷≠フ部分品を作ることで した。(略)けたたましいサイレンで警戒警報が告げられました。『また警戒警報や』と話しあ った瞬間、全身にものすごい激痛を感じ、一瞬目の前が真っ赤な血の色にみえました。(略) 『はい』と答えて、義眼をいれてもらいました。そのときその義眼は、私が助かると思っていた 右の目に入れられたのです。」  現在京都府盲人協会の副会長をしておられる秋本幸吉さんも時代の犠牲者のひとりである5)。 その日、秋本さんは親戚の掘立小屋を訪ねていた。「僕は帰り仕度を始めた。(略)ふと軒下の 壁に小さな布袋のかかっているのが目に入った。『何だろうなあ』紐は簡単に緩んで、中からぽ とりと落ちたものがある。見ると四センチ位もあろうか。小指ほどの銅で出来た筒であった。一 方は底になっており、筒の中ほどにはやはり赤銅(あかがね)の栓がしてあった。中に何が入っ ているのかは知らないが、そう大事な物とも思えなかった。僕には一つの閃きが湧いてきた。僕 の家には故障して使えなくなっているカーバイトランプがあった。『ようし、この筒はあのラン プの火口にもってこいの代物だ』」。「三回目の金槌を錐の上に振り下ろした、その瞬間である。 轟音が耳元で炸裂し」て、その代物は秋本少年から両手と左手親指、人差し指をもぎとってしま ったのである。この場合、不法≠ノ火薬を所有し管理上の不注意をおかしたおとなにも責任が ないとはいえない。しかし、秋本少年が筒に興味をもった動機が故障≠オたカーバイトランプ にあり、その背景に配給生活と父の応召があったことを考えれば、これもやはり軍国のもたらし た惨劇というほかない。  ここで自然に想起されるのは藤野高明さんである。小川で拾ったすてきな獲物=&s発弾に よって両手、両眼と弟さんを強奪された藤野さんの体験と生きざまは手記等6)で詳述されてい るので割愛するが、ただ1つ指摘しておきたい。それは藤野さんのあの夏の朝≠ェ、1946 年7月18日、すなわち敗戦から約1年を経過した夏の朝だったという事実である。日本軍国主 義は歴史の法則にうちのめされ身を滅ぼしたのちになお、川底から蘇生し、少年に襲いかかった のである。    なお、ヒロシマ・ナガサキの原爆は瞬時に大量の視覚障害者をうみおとした7)。    一方、戦場の兵士を待っていたものは何であったか。    4 両眼は君が御為に捧ぐれど  当時、戦場での失明は、「肉眼を国に捧げた」あるいは「聖戦に両眼を捧げた」と報道され、 失明した兵士は失明軍人∞戦盲勇士≠ニ称された。召集令状1枚で前線に狩り出された兵士 の前には常に戦盲≠ヨの危険が黒々と待ち構えていたのである。実際、戦盲≠ヘ過去の戦争 とは比較にならないおびただしさを数えた。  「戦傷全体と眼の負傷の割合は普仏戦争の時は百に対して一、即ち1%であったが、日露戦争 では2%、前世界大戦では5〜10%となり、今回は15%に達して居る8)。」  「爆弾をこわしてその火薬で絶壁に穴をあけるという作業中、突然の爆発にあい、右片腕と両 眼を失った。9)」  「前方三百メートルほどの所に、チラリとわずかに光るものを見た。急いで当番兵五人がそち らの方へ走った。二百メートルも走ったろうか、突然三、四メートル先を走っていた仲間が大き な音とともに吹き飛ばされた。そして、それを見た次の瞬間、彼も倒れていた。ゲリラ対策とし て埋めてあった地雷を先の二人が誤って踏み、爆破させたのであった。地雷を直接踏んだ二人は 手足がもがれ、その後に続いた彼は目をやられた。10)」  こうした戦盲≠スちは自己の障害や人生について、あるいは歌を遺し11)、あるいは投書 で訴えている12)。   手術せし我を見舞ふとまさぐりつつ来たれる友も戦盲の友      両眼は君が御為にささぐれどいよいよかたし大和魂   かたじけなき恩賜の義眼己が目におしいただきていれもらひたり   おこるなよ腹立てるなよと我が心堅くいましめすごすあけ暮   心冴えて眠れぬ夜のさびしきに点字さぐればいよいよ冴え来る   我が顔の傷の激しさを母は見つつこれがお前かとまた聞き給ふ   幼き日めしひの人に石投げしその手に握る再起への杖  「ナゼ向フデ戦死シナカッタカト云フ様ナ事ヲ非常ニ考ヘマシテ、戦死シタ戦友ガ大変羨シク ナリマシタ」  「日露戦争で失明した勇士に励まされ、老勇士でさへこの元気なら俺だって敗けてはならない と」  「神風特別攻撃隊のことを知ったときわが身をどうして特攻隊の若い人たちに申訳してよいか、 片方の目でもよい、残っていれば私は特攻隊員に志願してもう一度米鬼の胸もとへ突込みたい気 持で二日ほど眠れませんでした。だが(略)私は再起の道があります。」  あくまでも彼らは皇軍の兵である。眼は天皇に捧げたのであり、大和魂はゆるがない。天皇か ら下された恩賜の品に畏み、特攻に赴けぬ身を歯ぎしりして、再起を誓う。御国≠フ名におい て要請された気迫を保っている。しかし、それだけであったかといえば、そうではない。活字で 公表されたこれらの文章においてさえ、臣民の顔のそこここに人間的真情があぶりだしのように 浮かびあがっている。それは、母親の情愛にふれた子としてのむせびであり、突如闇の住人とな った中途失明者としてのむせびであり、さらには、盲人に石を投げた過去への内省ともなってい る。戦盲≠スちは勇士≠ナあり、同時に人間であった。  さて、では国家は彼らをどのように処遇しただろう。    5 恩賜の杖  日本ライトハウスの創立者、岩橋武夫さんは「戦争は悲劇の父であり、また創造の母である」 という言葉をよく口にしたという13)。戦争はまぎれもなく悲劇の父であった。だが、はたし て障害者にとって真に創造の母でありえたか?  たしかに、イギリスが盲人保護制度を整え、ドイツで盲導犬訓練が試みられる重要な契機は第 一次対戦であった。わが国でも、すでに日露戦争の頃、政府は失明軍人講習会を開催したし、1 917年に点字郵便物の特別規定が定められたのや1925年に点字投票の有効性が確認された のは、第一次大戦による失明軍人の増加と無関係でない。1937年頃、視覚障害者の間で第一 次対戦後のヨーロッパを引きあいにだして「戦争と盲人解放運動14)」が論じられたことがあ る。失明軍人が新たに盲人の隊伍に加わったのを機会に盲人保護事業を飛躍させようというので ある。もともとの障害者≠ェ石を投げられる存在であったのに対し、失明軍人は「私共ハ皆様 ニ接スル毎ニ敬虔ノ念ニ堪ヘナイノデゴザイマス15)」と言われる時代であった。好機と考え る論調が芽ばえたことは不思議ではない。    実際、日中戦争の長期化は、傷痍軍人対策を焦眉の問題にした。政府は1937年に臨時軍事 援護部、1938年に傷兵保護院、そして1939年にはそれを統合した軍事保護院を設置して 局面への対応をはかっている。そのなかで、1937年から陸軍病院等で失明軍人に対する講話 会、慰安会などが開かれ、点字やマッサージの教授が行われ、翌1938年には小石川に失明軍 人寮が置かれ、官立盲学校内に失明軍人教育所が開設された。こうした施策は地方へも拡大され、 1940年、静岡では県主催の失明傷痍軍人職業座談会≠ェ催されている。これは、失明軍人 5人、一般中途失明者4人、盲学校卒業生2人を集めて、失明軍人の健康・心理面での予後、現 在の生活、社会復帰等について経験を交流し、励ましあわせる場となっている。その席には、軍 事保護院、傷痍軍人会、陸軍病院、盲学校、職業安定所等からの来賓も出席しており、ときには 個別の職業相談にも応じるのである。16)  この変化を、松井新二郎さんは失明軍人の立場から回顧17)しておられる。「私は病院にい て点字を教わったし、盲導犬の輸入第1号であるルティ号(セパード)をもらい、早稲田大学の 哲学科へ1年間、委託学生としてかよった。愛国婦人会へいけば、平等どころか神さまあつかい で、杖も盲導犬も必要ないほど、手引きのヘルパーさんには不自由しなかった。(略)軍人恩給 で生活の保障があり、住まいは国のものだし、『あんまだけはするな』『物売りはするな』とい って、あらゆる職を世話してくれました。傷痍軍人を採用した企業には、政府から工場改善など の補助金がでたり免税措置があった。したがって職業選択の幅は広く、盲にたいする社会の目も かわってきて、(略)」と。  このようにみてくると、戦時体制は総合リハビリの母であったかのようである。その側面を無 視するのは歴史の一面化であろう。しかし、それが何のために、またどのように推進されたか、 もう少し仔細に吟味する必要がある。  @もともと明治以来国策の基軸は富国強兵であった。まして大東亜共栄圏構想が狂気の熱を放 った時代である。あらゆる判断の基準は御国のため、陛下のため≠ナあった。一時、ある意味 で爛熟ともいえる様相を呈した戦盲保護事業の根幹をなす意志も、あくまで「再ビ国家社会ニ貢 献セシムル18)」の一点に向かっていた。盲人団体の指導者のもくろみがどうであれ、戦時国 家に盲人解放しようなどという意図はなかったのである。  だからこそ、村谷昌弘さんは告発しなくてはならなかった。「失明軍人に検校なみの杖をもた せて、下にもおかない待遇をしたのは、およそ支那事変(一九四〇年)までのことじゃないです かね。ぼくらも療養所の白衣に戦盲<}ークはついていたけど、食事のおかずがないため、毎 日のように地面をはって野草とりをさせられました。婦人会の慰問など一回もありません。退院 のとき京都の家まで送ってくれた看護婦さんは『すみません、白衣を返してください』と、私が 身につけていた白衣まで持ち帰ってしまいましたよ。19)」  要するに戦盲保護≠ヘ、武器としての眼の復元を含めて、戦盲≠フ肉体から「国家社会ニ 貢献セシムル」べき残存能力をしぼりだすこと、戦盲≠フ気迫を国民の士気昂揚に利用するこ とをねらいとし、投資効果とてんびんにかけて行われる戦時国策の一環にほかならなかったので あろう。「皇国の興廃を決せんと闘ひつつある超非常時に安閑としては居られぬ、さうだ、やる んだ、私の胸には烈々と再起の血が滾った20)」などという戦盲≠フ叫びに軍部ファシスト はほくそえんだにちがいない。  Aつぎに、村谷さんの話に登場した検校なみの杖≠ェ問題である。この杖の受給第一号は日 露戦争の犠牲者柴内魁三であるという。さきの松井さんも、第百七十七号≠ニ明記されたケヤ キの一本杖を与えられている。みごとな朱の漆塗りで、紫の房がつき、にぎりと石突きの部分は 水牛の角製だったそうだ21)。戦盲≠フ歌にあった義眼といい、この杖といい、視力の代償 としてはあまりに安上がりだが、この杖の漆の下には巧妙に隠されていたものがある。  ひとつは、不当に視力を奪った侵略政策への怒りをそらし、しずめる役割。天皇の御仁慈 のこもった杖である。畏れ多いいただき物である。はりめぐらされた世論操作の網と相乗して 赤誠≠かきたてるには十分であった。もうひとつは、視覚障害者に差別をもちこむ働き。そ れが支配層の心に自覚されていたかどうかは不明である。しかし、結果的にもともとの℃糾o 障害者と肉眼を捧げた$盲との間に画然とした境界がひかれたのである。「杖からして一般 盲人とは別格22)」なのだから。  B筆者はさらに、その差別の論理が戦盲保護事業≠サれ自体に貫かれていたのではないかと いう疑いを提示しておきたい。根拠は日露戦争後の援護を解説した文の中にある。「失明軍人講 習会が開催せられ、下士以下に対しては鍼灸按摩術を授け、将官階級者に対しては盲唖教員と しての再教育が授けられた23)」と。昭和10年代の援護体系をトータルに知る史料は未見で あるけれども、前掲松井さんの回想中、「あんまだけはするな」のくだりは上の推測を一部裏付 けているのではなかろうか。  なお、日中戦争の時期戦盲¢ホ策が急ピッチに具体化される背景には、ヘレン・ケラーの1 回めの来日(1937年)を端緒に展開された大キャンペーン・愛盲運動の盛り上がりがあった こともみのがせない。ちなみに、女史は、2回めの訪日(戦後)を終えたのちに、日本の視覚障 害者の戦前戦中を「長年の間、天皇を中心とする国家の為に続いてきた自己否定24)」と評し ている。    6 戦いのときにあはずばかくばかり  わが国の近代障害児教育は、他でもなく、視覚・聴覚障害教育の分野からスタートした。それ はなぜか、という設問は、教育史だけでなく社会・文化史上の興味深いテーマである。ここでそ れに立ちいる余裕はない。けれども、ほかならぬその事情が戦時下の視覚障害者の境遇を単純で なくさせているように思われる。    障害者も生きた人間であるからには、衣につけ食につけ住につけ銃後の貧しさを避けて通れな い。家族の一員である以上、父の出征や兄弟の戦死を無関係のこととやりすごすことはできない。 焼夷弾の雨もかいくぐらねばならない。一億国民の塗炭の苦しみはそのまま障害者の苦しみであ った。だが、同時に彼らは障害者であった。差別される存在であった。とくにもともとの障害 者≠Q5)は、生産力としても戦力としても役に立たないという理由で差別的扱いを受けていた。 視覚障害者もその例外ではない。  のちに戦盲≠ニなった男性が、過去を振り返って書いている。「私は国で盲人や片輪者を見 た時に、彼等はどんな気持ちでいるかと考えてやったこともなく、只盲か∴ハにしか思はなか った。又彼等が道行く姿を見送る多くの人の中にも、『人間並みでない片輪者』と、まるで罪を 犯した者を見るような目付きさへする者がある。26)」  もともとの℃糾o障害者は書いている。「福祉的な扱いを受けた覚えは何一つ無かったので あった。否、それどころか、私達はかえって邪魔者扱いされていたのであった。27)」  戦災で失明した少女も書いている。「おばは、部屋の隅にうずくまっている私の首をつまみ、 無理矢理に私を引っ張り出し、訪ねてきた人に、『うちには戦争で親を殺され、めくらになって 帰ってきたやっかい者がいるのよ』と珍しいものでも見せびらかすように(略)。28)」  自然、「『ごめんなさい』これは私の日常生活の武器である。(略)そんな事はめったにないが、 電信柱にぶつかっても、荷車にぶつかっても、私はすぐに『ごめんなさい』とあやまる29)」 といった処世術がまじめに唱えられることにもなった。  このような疎外感が沸騰するのは徴兵検査に直面したときである。「私は近視です。右0.1、 左0.6です、決戦に決戦が続けられて居る時に視力不足の為、我等若人に取(ママ)って千載 一遇の期に漏れることは国家に対して甚だ相済みません30)。」兵隊に行けない者は男ではな いという風潮の中でさいなまれたのは、視覚障害者本人だけではない。「戦争末期、父が私に言 った。『お前は目が悪くて自分では戦争ができないから、誰か目のよい人に一緒に特攻機に乗せ てもらって敵に体当たりしてくるとよい』と。31)」  じつに、「戦の時にあはずばかくばかりめしいたる身をなげかざらまし32)」とうたうより ほかにどんなすべがあったろう。国際障害者年を記念して出版された2冊の戦争体験文集33) には、障害種別をこえて強いられた屈辱の日々が生々しく描かれている。その中に頻繁に登場す るのも穀つぶし!∞非国民!≠フ類の石つぶてを浴びせかけられた障害者のうしろ姿である。 この点では視覚障害者の戦時体験とそれ以外の障害者の体験は同一のシルエットを形づくってい る。  ところで、さきに、筆者は、「戦時下の視覚障害者の境遇は単純でない」と述べた。それは、 視覚障害者の戦争体験がもうひとつのシルエットをもつと考えるからである。すこし長くなるが、 1945年1月4日付『点字毎日』の主張するところを全文引用し、それについて検討してみよ う。    7 かなしい免罪符  「大東亜戦争第四年、苛烈なる新春である。ただの春ではないのだ。同胞の血に染まった新年 である。屠蘇を酌んで心ゆたかに祝ふ正月ではない。ただひたむきに神前に心を聖め静かに決勝 を祈念すべき新春である。我々は過去に於て陸海軍への『航空機献納』に、直接『兵器増産』に、 将又(はたまた)第一線の神鷲たちの疲労回復のため『航空あんま』に、産業戦士のための『産 報あんま』に、戦病勇士の『慰問治療』に、又『音楽報国』に『食糧増産』に、盲人としてなし 得る、ありとあらゆる方面に挺身して来た。  そして、一般人以上に、『貯蓄』に、『献金』に、『国債消化』に、『疎開分散』に、『思想謀略戦』 に、『神経戦』に、国家の要望するありとあらゆる方面に戦いぬいて来た。然し、これでもうよい のではない。  醜敵米英を完全にたたきのめすまで戦いつづけねばならないのだ。みたみわれ≠ニしての盲 人我々は我々盲人としてなし得る限りの力を国に捧げ如何なる困苦欠乏にも忍従し、このおほ みいくさに勝ちぬかん≠フ心に徹し瞬時も晏如(あんじょ)たることなく勇往邁進せねばならな い。いくさは比島を中心に太平洋上波高くひしひしときびしく身に感ずる。この重大なる年頭に 当たり我々は前線に苦闘する勇士に限りなき感謝の誠を捧げ武運長久を祈ると共にわが特攻機の 気魄を以って職場職場を守りぬかんことを誓ふものである。(新春譜)」  主張というより、宣誓という方が適切かもしれない。ともあれ、すさまじいの一語につきる。 軍部の圧力、視覚障害者サイドの自主性、軍国社会の雰囲気、そのいずれを重くみるかは別とし て、これは視覚障害者が戦時体制に参加していたことを物語っているのではなかろうか。「新春 譜」が事実を反映しているとするなら、視覚障害者は、「戦時体制に参加した」というもうひと つの貌をもっていたことになる。  「御奉公」のひとつひとつを調べてみよう。   (1)航空機献納    当時、全国の行政区等を単位に献金を集めて飛行機を建造し、軍に納める行為は銃後の光栄あ る任務だった。京都に例をあげると祇園の舞妓たちも一機献納している。陸軍へ納めるのは愛 国号=A海軍へ納めるのは報国号≠ニ呼ばれ、献納にあたっては盛大な命名式がとりおこなわ れたという。  報国第619号(日本盲人号)。これが、視覚障害者が海軍にさし出した艦上戦闘機、いわゆ るゼロ戦の番号と愛称である。1942年3月大阪歌舞伎座で挙行された命名式を記念する写真 には献納代表者の挨拶状が添えられている。それによると献金総額48,545円37銭。北海 道から沖縄はもちろん、遠く樺太・大連にまでおよぶ応募者の総数13,000名にものぼった という。    この献納運動は1940年10月のいわゆる紀元二千六百年を奉祝する全日本盲人大会におけ る決議から出発している。「本大会ノ記念事業トシテ軍用飛行機『愛盲報国号』ヲ全日本盲人ノ 名ニ於テ献納スベク基金運動ヲ実施スル34)。」募金計画の具体案をみれば、その決意のほど がうかがえる。「明年三月末日迄ヲ第一期トシテ大会出席ノ地方団体ハ勿論不参加団体ヲモ強要 シテ之ニ参加セシメ以テ全日本盲人運動タラシメルコト。若シ所定ノ金額ヲ獲得シ能ハヌトキハ 三月以後第二回全国大会マデヲ第二期トシテ目的ヲ完徹スルコト、コノタメライト・ハウス内ニ 特別金庫ヲ設ケ、募集ノ事務並ニ管理ニアタルコト。35)」  11月10日付で早速印刷物36)が配布されている。そこには、ニュースを発行して地方 ノ成績≠竍美談≠紹介するなどの実務も説明されているが、何より運動の趣旨が力をこめて 訴えられている。すなわち、「聖戦下日本人ノ御奉公ハ『先ヅ空ノ護リヨリ』――我等ハ盲人ト 雖モコノ国ヲ挙ゲテノ非常時ニ際シ各自ソノ能力ニ応ジ御奉公ノ誠ヲ致サネバナリマセン。ココ ニ尊イ汗ト力ノ結晶ヲ以テ軍用機ヲ献納ナシ、我等ノ身代リトシテ第一線ノ空ニ送リ素晴シイ働 キヲシテイタダクコトニ依ッテ国恩ノ万分ノ一ニ報ヒヨウデハアリマセンカ。(略)願ハクハコ ノ際盲界ヲ愛シ祖国日本ヲ敬愛サルゝ全日本盲人諸君ハ自ラ赤襷ヲ掛ケ応召シタ気持ニナッテ一 人残ラズ此ノ聖ナル企ニ力強イ支持ヲ与ヘラレンコトヲ!起テヨ。日本盲界!奮ヘ愛盲ノ闘士! !我々ノ飛行機ヲ敵ノ陣営高ク飛バスタメニ!!!」  京都府立盲学校でもこの運動が展開され、集まった資金は1941年3月13日付で校長から 全日本愛盲連盟準備会本部へ送金された37)。納金額は200円ちょうど。その年発行された 学芸部の雑誌『抒情第五號』によると、「三月十日〆切った処こゝにも銃後赤誠があらはれ実に 百六拾七円七拾五銭の多額」が生徒から寄せられ、当時、例の『塔影』(ガリ版刷り)は物資不足を 理由に廃刊され、当の『抒情』が手書き回覧雑誌になっていたことや、物価(ラーメン10銭、 レコード1円50銭等)を考えるとたいへんな金額である。なお、個人で5円を寄付した生徒が 5人いて、校長からの送り状に氏名が特記されている。これは「募金セラレタル各個人ニ対シテ ハ好個ノ紀念(ママ)トナルベキ海軍大臣ノ感謝状(但シ五円以上ノ献納者ニ対シ)ヲ贈呈3 8)」すると定められていたからである。京都全体の献金額は1,677円50銭、大阪、東京、 新潟、北海道、大分、福井に次ぐ7位と報告されている。  話は横道にそれるが、献納者に送られたハガキ大の写真に写っているのは、日本盲人号が海上 を飛ぶ場面である。プロペラが回り、脚輪が伸びている。一見何の変哲もない写真である。が、 実はこれは合成写真である。新鋭戦闘機ゼロ戦は空中では脚輪を折り込む方式を採用していた。 その秘密が交戦相手に漏れるのを防ぐために合成写真でカムフラージュしたのである。  戦局が悪化するなかで、日本盲人号はどういう運命をたどったか。新春譜≠フ文言では愛 国号≠烽ったことになるが、それはどうなのか。今のところは何も分からない。それにしても、 航空機献納≠ヘ「嗚呼本当に良いことをした」、「それもこれも力強い共同参加の賜物39)」 であった、のだ。   (2)兵器増産  視覚障害者も直接間接に兵器の生産にたずさわった。それは事実のようである。さきの村谷さ んは「失明軍人のグループで工場作業をつづけ」ているし、神奈川には「小生は鋳型工場で砂を 相手にピストンの型を取る作業であります。(略)我等の汗の結晶は自動車の心臓部となり、全 世界をぐるぐる廻り皇軍将兵と共に御奉公致して居るのであります40)」という事例がある。 また戦後視覚障害者の新職業開拓に挑む工場として注目されたH電機が、失明軍人に研磨や組立 ての職場を開放したのは1943年であった。ただ視覚障害者のうち兵器増産の現場に就いたの は一部に限られていたこともあってか、その全容がどんなふうであったかよく知られていない。   (3)航空あんま  これには軍への訪問奉仕と軍属としての勤務と2つのタイプがある。前者には、開業している 三療家がマッサージ治療報国隊41)≠結成して出かけたり、盲学校の生徒が動員されて参 加したりしている。後者については、海軍技療手≠ェ有名である。  現在、京都府立盲学校で社会科を教えておられる竹内勝美さんも海軍技療手≠フ一人であっ た42)。「海軍でマッサージ師を募集しているという話を聞いた。俺達でも国の役に立つ仕事 が出来るんだと大喜びして、早速、志願の手続きをとった。面接が和歌山の県庁であるというの で(長崎から−筆者注)はるばる出掛けて行った。これに合格して軍属としての一歩を踏み出し た。」東京・水道橋のキリスト教会が訓練所で、そこには50名ほどの仲間がいた。訓練は落下 傘の降下訓練から始まり、3ヵ月後に各々の任地へ遣られた。竹内さんは横須賀航空隊の医務課 に勤めることになったが、外地に派遣された仲間には途中で船が沈められて死んだ人も多かった。 のちには部隊とともに青森へ移動して「老兵を治療してのんびりしていた」が、それまでは空襲 にせめたてられたし、「何も悪いことはしていなくても殴られ」る軍隊生活だったという。  『点字毎日43)』に「海軍技療手の歌」が載っていた。四番、五番の歌詞を紹介しておこう。   四  戦ひ終へて帰り来る 嗚呼海鷲よ安かれと  真心こめし技療もて 微笑みかはす顔と顔  明日の戦果を祈らまし   五  敵を倒してのちにやむ 海国男児の血をうけて  尽忠報国誓ひてぞ 海軍技療手今ぞ起つ  嗚呼光栄の技療手や  なかにはほんとうにひどい例もある。「一九四三年、私たちマッサージ師は何等事前の連絡も なく、突然、警察から田中(現、柏市)陸軍飛行場で働くことを命じられました。それから一九 四四年いっぱい、私たち野田のマッサージ師は松戸、柏、木下の各支部の人々と交代で毎日パイ ロットの体をマッサージしました。44)」「嗚呼光栄の技療手や」などとよく言えたものである。   (4)産報あんま  産報≠ヘ産業報国≠フ略である。「ともあれ疲労回復にはいろいろな方法もあるが昔から 簡単で手っ取り早く出来る按摩療法が一番歓迎されている。徹夜とか深夜作業にはこの産報あん まの効果がありありと現はれ」るとされ、「とくに産業戦士への贈物といった意味から『産報あ んま』と名づけられた」という。その手順などは不明だが、「僅か15分間」の施術であった4 5)。  航空あんま%ッ様、成人三療家も盲学生もこの奉仕活動に加わっている。ここでは大阪府立 盲学校の教諭が著した治療奉仕の手帳から46)≠引き写しておこう。  「毎日数千人を擁する某造船所へ治療奉仕に行く。若い産業戦士の肩癖、腰痛、上膊痛が重 (ママ)なので三年生を動員してゐる。(略)私は遠い故郷を離れ戦力の増強に挺身して休んで いる若い人たちの姿を見ると『これも国のための犠牲だ。どうぞ頑張って速く(ママ)癒り職場 に帰ってくれ』と祈らずには居られなくなる。我を忘れて念入に治療してあげる。(略)残業で 眼のすはってゐる人や徹夜でへとへとになってゐる人もゐる。僅か二三時間で十分所期の効果が あげられるので嬉しい。いずにもせよ『目の不自由なみなさんが来て下さるのでみんな張切りま すよ』と言って呉れるのでこちらも毎日暗い途を通って行くのも足が軽い。」  課業をさいて近隣の工場に出むくことはどの盲学校でも行われていたと考えられる。京都府立 盲学校の「当直日誌」や「教務日誌」にも随所に産報按摩実施∞産業報国デー≠ニ記載され ている。京都府立盲学校におけるこうした奉仕活動は1938年頃から活発になっている。いう までもなく、日中戦争の長期化に対応して打ち出された国家総動員法の影響である。   (5)慰問治療  これは、戦場で傷ついたり病をえたりした兵士などを病院に訪ねて治療奉仕したことをさす。 航空あんま∞産報あんま∞慰問治療≠「ずれも視覚障害者にとって得意の領域である。 我を忘れて念入りに治療する*モ学生らの姿は関係者の三療に対する評価を変えることさえあ ったかもしれない。京都府立盲学校の資料室に、舞鶴海軍病院長から学校長に宛てた求人依頼状 (昭和16年6月16日付)がある。  「『マッサージ』施術者斡旋方ノ件依頼/本院入院中ノ戦傷病者加療上必要有之候ニ付貴校卒 業者若ハ修業者ニシテ『マッサージ』術ヤ施療ノ技倆アルモノ有之候ハヾ至急一名御斡旋相成度 候」。「月収約六拾五円程度」と明記されている。その年の盲学校教職員の俸給月額が、教諭、 60円から118円、点字印刷手、35円、小使、18円から34円とあるから、社会的に低い 待遇であるとは言えない。これを受けて斡旋された人があり、しかも健在であるなら、ぜひ話を うかがいたいものである。ただし、その依頼状の末尾には「全然視力無キ者ハ出勤退庁及勤務上 支障有之候条独歩シ得ルモノ」と条件が付されている。   (6)音楽報国  1941年2月16日大阪毎日新聞に「盲目の少女たちがお琴や歌で白衣の勇士を慰めました」 と題する記事がある47)。「これは暗い盲ひた学童らで催された明るい学芸会――大阪府立盲 学校では、十五日午前九時から同校二階講堂で、父兄および同じ眼疾に不自由をかこつ大阪陸軍 病院白衣勇士ら約二十名を招いて学芸会を開催、初等科三年生志村君の「ホフマン五七番」ヴァ イオリン独奏、同科二、三、四年生の筝合奏「くろ髪」(略)など盛沢山のプランで、暗い世界 を明るく生きる朗らかな集いを行ったが、指尖の感触で目の不自由さも何処へやら、その演技ぶ りは目あきも遠く及ばないほど素晴らしい出来栄えであった(略)」。同日付大阪朝日新聞もこ れを報じている。音楽もまた、視覚障害者にとっては参加しやすい分野であった。京都府立盲学 校でも、音楽報国≠ヘ学校行事等に組みこまれている。「昭和十九年、十月二十二日、日曜日、 音楽部の有志、(略)先生引率のもて、横須賀大津海軍日本赤十字病院に慰問に出向かれ午後二 時帰校」などと『当直日誌』に記されている。  「我ら盲人の筝三弦は単なる娯楽器具であってはならない48)」という時代であった。     (7)食糧増産  徳島県に「支那事変に工兵としてお召にあづかり戦闘中、不幸敵弾のために左眼貫通銃創にて 失明した」山添彦市という元軍人がいた。この人は食糧増産に邁進≠キる生活を書き残してく れた49)。    「軍医殿の手厚い看護により傷も癒へ、昭和十三年十一月三十日、無事に退院致しました。 (略)そうして何か仕事をと思い、草履作り縄なひをやって見ると案外面白く出来ます。私は元 来百姓に生まれた者ですから、家内と共に田圃や畠へも行ってやって見ると大変仕事が面白く出 来ます。(略)此頃では一人前には出来ないがこの時局下、労力不足の今日、食糧増産の一助に と一生懸命にやって居ります。」これが載っているのは、中央盲人福祉協会の会誌第19号(1 942年)である。ところが、食糧事情は日に日に悪化するばかり、増産≠フスローガンはし だいに絶叫調に変わっていく。1945年になると、山添さんはマスコミにひっぱり出されるの である。「戦盲の精農家(略)山添彦市上等兵はもゆる再起の闘魂であらゆる荊棘をきり拓き暗 黒から光明へ――そして今では押しも押されもせぬ精農家として一家の柱石となって敢闘してい る。写真は氏の晴姿である50)」と。  これほどめだたなかったとにせよ、自宅の庭で芋、豆類、あるいは工業用油の原料となるヒマ を栽培した視覚障害者は無数にあったと想像される。  京都府立盲学校でも1944年4月10日の職員会議で食糧増産≠議題にしている。「午 後三時三十分臨時職員会議食糧増産対策トシ空地利用協議会開催、校庭開墾ノ役割決定十一日ヨ リ着手ノ予定」と決定。「四月十一日、火曜日、晴、午後五時限校庭一ヶ所開墾草取」となり、 以後「修練作業畑つくり」が半日行事になってゆくのである。黙々と畑つくりをする視覚障害児 の耳底で、およそ一年前に聞かされた建国大学教授の講話はどうひびいたであろう。「今日日本 の国において一番大切なことは軍需品の製作と食糧の増産であります。ところがあなた方は米粒 一つ作る人ではありません。そこで食を減らすといふ処までいかずともせめて食物に対して好き 嫌ひをいはないといふようなことは眼の不自由なあなた方として、今日最少限度のつとめといっ てよいでしょう。51)」   (8)貯蓄、献金、国債消化  いずれも実情を探る史料に乏しいが、決戦下盲人の標語≠ニして「盲人も武器を作るぞ国債 で、十万こぞって献金貯蓄52)」が叫ばれていた。「昭和十九年度の国民貯蓄目標は三百五十 億とあきらかにされた。この貯蓄目標達成は直ちに軍艦となり戦車となり大砲となって、敵米英 撃滅の戦力となるのだ。神聖なる大東亜戦争完遂の御奉公の道である。神州日本に生をうけた我 々には、この貯蓄を完遂せずして何の顔あって護国の英霊にまみゆることが出来よう。この御奉 公は我々盲人にとって最も手近かに出来る御奉公であることを知らねばならない53)。」つま るところ、戦力として役立たぬ視覚障害者はその身を自覚して、出せるだけの金を出せという訳 である。  結局は敗戦後紙きれに帰してしまう債券であるにもかかわらず、ほとんどの国民にはそれを予 見する方法がなかった。会社ぐるみ、地域ぐるみで購入を競いあわされた。京都府立盲学校の 昭和十五年度往復文書綴≠ノも債券購入申込表≠ェとじられている。まだ回覧途中なのか未 記入の欄も残っているが、校長の50円を筆頭に、20円、10円、5円と軒並み書きこまれて いる。1944年には、学校長から保護者に宛て、貯蓄を呼びかける手紙まで発送された。   (9)疎開分散  疎開命令が発動されたのは1944年1月であった。その前々年には本土空襲が始まり、前年 にはアッツ島玉砕≠ェ伝えられるという戦況の中で、それは「空襲、火災などの被害を少なく するため、一箇所に集中している人や建造物を分散する」(広辞苑)最後のあがきとしてうち出 されたのである。  その悲惨さは「戦争中の暮らしの記録」(暮らしの手帖社,1980年)などで明らかにされて いる。視覚障害者の疎開体験も基本的に一般のそれと異ならない。「無理に疎開させた子が疎開 先で爆死」「捨ててあるものを拾って食べる生活」「一家離散したまま再び揃うことなく」「夫 の出征中に強制疎開でついに廃業」等々54)。ただ、これは、障害者、老人、こどもに共通し ていえることであるが、疎開には「いざというときの足手まといになるから」という発想が含ま れていた。その意味するところは重い。   (10)思想謀略戦・神経戦  この問題になるとまったくといっていいほど手がかりがない。わずかに、当時、毛利元就や北 条早雲が隣国を攻略するにあたって盲目の間者(スパイ)を送り込んだ故知がまことしやかに広 められた事実55)はあるが、はたして、戦時下の視覚障害者は積極的攻勢的な意味での謀略 戦≠ノどのように関与したのであろう。これに対し、消極的防御的な意味での思想戦・神経戦 はある程度イメージできる。  1944年8月17日付『点字毎日』にこんな記事がある。「口をつつしめ/(略)銃後国民 の最も謹むべきは敵の謀略にかかってあらぬデマ宣伝に踊らされぬことだ。」「必勝不負(マ マ)の態勢も不用意にしゃべった一言から破れることがある。軍機は厳として守り機密は断じて 洩らしてはならぬ。」三療はお客相手の仕事である。治療者と患者の間にかよう親近感がふと本 音をもらさせることもあろう。それが危ない、というのである。記事はこう結ばれている。「北 九州空襲の際鍼按家が造言飛語で懲役一年に処せられた事は我が業界にとって一大汚点であり我 々は再びかかる不祥事を繰返してはならない。」   (11)防空監視  新春譜≠ノは、とりあげられていないが、視覚障害者と戦争をめぐる問題でどうしても欠か せないのが盲人防空監視哨員≠フ一件である。  やはり『点字毎日』に語ってもらおう。1943年8月26日付1111号の裏表紙に、通常 号よりもひときわ大きな文字(普通の活字)が刷りこまれていた。  「能登半島の一角に立って耳を澄まし敵機来襲に備へてゐる我らの友、盲人防空監視哨員を知 ってゐるであらう/磨ぎ澄まされた我らの耳、晴眼者に勝るとも劣らぬ聴覚、十万盲人はこの有 力なる武器で本土を狙う敵機を一機も皇国の空に入れてはならない/忘れられがちな盲人にも斯 うした御奉公の道のあることを記憶せよ。」  それから約半年の後、今度はこんな投書が掲載された。  「私は視力障害を受けてゐるので、戦地に行くことが出来ず、大戦果の発表を聞くたびに苦労 なさる兵隊さんたちに感謝するとともに、自分が立てないという辛い気持で胸が一杯です。これ は私だけ、一校だけでななく、全日本の盲学生の気持です。/ドイツでは防空監視哨の聴音係を、 盲人にやらしたら普通の人より三秒から、五秒早く、敵機の襲来を聞くことができたと聞いてい ます。我国でも能登半島の一角に立って立派に盲人防空監視哨員として、重要な役割を引受けて いる方々があります。/私たち盲学生に聴音機を委せて頂きたい。そして三秒でもいいから、早 く敵機の爆音を聞き、御国のお役に立ちたいと心から願って居ります。56)」  盲人防空監視哨員=Bいつ、誰が思いついたのか、時間のベールは厚く、その輪郭さえさだ かでない。能登半島の一角≠ェどこかも分からない、といって、架空の作り話でもない。証言 者は多い。  竹内勝美さんは長崎の盲学校時代をふり返って書いておられる57)。「目が悪いと耳がよく 利くだろうと言う事だったのだろうか聴音機(大きなラッパがついていて、早く飛行機の音を捕 らえる機械)の訓練という事で五人程生徒が選ばれ、学校で兵隊三人程と三日間程、寝食を共に して訓練を受けた。」  もう一人は鈴木栄助さん。鈴木さんは盲学校教師としての三十年間を回想して書いておられる 58)。「中等部と師範部の鍼按科、音楽科の生徒たちは(略)グラマン戦闘機、B29爆撃機、 などの機種別、高度別の音盤(当時は敵国語使用禁止のためレコードといわなかった)を聴取さ せられた。」  竹内さんの記憶では、「勿論、何の役にも立たなかった」そうである。それに対し、鈴木さん は「聴覚に鋭敏な彼らは、百発百中とまではいかなくても的中率は高かった」と覚えておられる。 けれども鈴木さんの述懐でもっとも強調されているのは、都心の雑音の中で耳をそばだてている 姿のいたいたしさである。とても実用に移せるものではなかったろう。いや、そもそも発想が逆 立ちしている。にもかかわらず、戦時体制は視覚障害者にそれを要求したのである。  鈴木さんが、「夜、寄宿舎で『監視哨は、音楽科生が本命かな』と冗談半分にけしかけると、 『音楽って純音によるものよ。爆撃のような雑音にも鋭いのかとごっちゃにされちゃ困るよ』と やりかえす生徒」がいたという。このひとことと、その生徒のさびしい笑い声≠ニは、戦時体 制への痛烈な一撃となっている。  以上のようにみてくると、やはり、視覚障害者はあの戦時下で・参加・というもうひとつのシ ルエットを形成した――それも個別例外的にではなく、集団的組織的に――と言ってよい。そし て、そうした・参加・は、視覚以外の障害をもった人の戦争体験ではほとんど語られておらず、 視覚障害者の経験の重要な特徴となっている。  ちえおくれの人や肢体障害者の戦争が疎外≠ナ塗りこめられているのに対し、視覚障害者の それは参加≠フ側面をもつ。  なぜか。   戦時政策が視覚障害者を一面では役に立つ¢カ在とみなしたというのがその答えであろう。 軍国がそう判断した前提には国民を根こそぎ動員しようとする欲望に加えて、視覚障害者がすで に教育を通じて組織されていたという事情があった。  それにしても、その・参加・は、さびしい¢纒ィであった。社会生活から疎外されつつ、戦 時体制に・参加・する、いや・参加・させられる。なんとも惨酷な・参加・である。筆者には、 新春譜≠フ一文字一文字が、「非国民≠フかなしい免罪符」のように思えてならない。     おわりに  「視覚障害者と戦争」を解明するためには、まだまだなすべきことが多い。視覚障害児はどの ような生活を送り、何を考えていたか。盲学校の果たした役割は。教職員や父母の動向は。反戦、 あるいは厭戦の態度を貫いた視覚障害者はなかったのか。等々。  ひきつづき文献調査と聞きとりに努力していきたい。着手したばかりの聞きとり活動の中で、 年老いた『塔影』の書き手二人が口をそろえて、「今、私は少しでも早い死をのぞみ願っており ます。その原因の一つには、もしまた戦争がおこったらという不安と恐怖があるからなのです。 絶対に戦争はしないでほしいです」と叫ぶように訴えておられる。これは急ぐ仕事である。  本稿をほぼ書き終える頃、あらたな情報が寄せられ記録する会♂員に衝撃を与えている。 それは、『塔影』の同窓生の中に徴兵検査に合格して衛生兵として応召し、前線で戦死した人が いるというのである。その経過も掘り起こしておきたい。   (注および引用文献 省略)       (史料からの引用部分に、支那∞片輪≠ネどの表現がありますが、当時の用語として    そのまま掲載しています。今日の視点から言えば、不適切な表現です。) (この論文の無断転載・引用を禁止します。)      2002年12月26日 岸