平成遍路 シンポジウム

京都会館
<写真1 京都会館>
 2003年4月5日(土)午後1時30分から4時30分まで、京都会館第2ホールで催された「平成遍路 歩けば自分が見える シンポジウムと演奏の集い」に参加しました。

 午後1時20分現地到着。受付で招待状と引き替えに読売新聞大阪本社の封筒(中にはパンフレット、アンケート、黒田杏子さんの資料3枚が在中)とお土産として日清緑茶パックを頂いた。午後1時30分時間通りにシンポジウムが始まる。今回で3回目となる今日のシンポジウムには1550通の応募がありその中から900人余りの人に招待状を送ったとそうである。

 第一部は、俳人の黒田杏子(ももこ)さんの特別講演 演題「遍路吟行 花に逢う、人に逢う」

 赤茶色のモンペ姿で登場された黒田さんは、四国遍路吟行を年4回実践されておられる方で、瀬戸内寂聴さんの言葉も引用され、巡礼の時には、「孤独」というものに出会えること、「地霊」というものと感じることができることなど話された。そのあといくつかの句を写真とともに紹介された。

  『ようやくに をんな遍路を こころざす』
 香川県多度津での句。黒田さんがお遍路をされ始めた頃の写真と吟行会のメンバーが写っていた。

  『逢うて別るる 子遍路の こころざし』
 一遍上人ゆかりの時宗の寺での句。おばあちゃんと子供のお遍路さんを詠んだ句。

  『みな過ぎて 鈴の奥より 花のこゑ』
 高知県と愛媛県の県境近くの樹齢200年近い桜を詠んだ句。

  『飛ぶやうに 秋の遍路の きたりけり』
 若いお遍路さんが、ザックを背に早足で巡礼しているのを詠んだ句。

  『空海の 道われの道 横しぐれ』
 紀貫之ゆかりの高知県国分寺で寒風にさらされながら詠まれた句。

 吟行句会は一人でできるものではなく、10人いれば9人に自分がうつるのがいいところと話された。

 また30才から桜めぐりを始められ、京都府京北町常照皇寺の九重桜が素晴らしいことや、一つの桜を定点観測してみるといいこと。2月に常照皇寺の九重桜を訪れると前日の地吹雪から身を守るためか枝がからまるようにまるまっているのに気付かれたことや、 桜守の佐野藤右衛門氏のことなどを紹介された。
開演前
<写真2 開演前>
  
 第二部は「遍路組曲」演奏会

 三味線:月岡祐紀子   二胡:許 佳   尺八:原郷界山   打楽器:熊谷祥子   琴:川村晴美の構成で「遍路組曲」を演奏された。

 演奏のあと、四国を二巡された月岡さんのお話があり、この組曲は四国を歩いている感じや歩くリズムを意識して、民謡も取り入れてつくったと語られた。
演奏会
<写真3 演奏会>
 
パネルトーク
<写真12 パネルトーク>
 第三部パネルトーク「歩けば自分が見える」

 パネリストは脚本家の早坂暁氏、インターネットサイト「掬水へんろ館」開設者の串間洋氏、俳人の黒田杏子さん、フリーライターの佐藤孝子さん(司会)。

 自らお四国病の重病患者と称される司会者の佐藤さんが、お遍路を歩くということ、札所巡拝の楽しさなどをテーマにトークすることを提案された。

 まず串間氏が「掬水へんろ館」に関して、ご自身のお四国区切り打ちのページや遍路リンク集、談話室などを紹介された。
 串間氏のこのHPは、インターネットお遍路の総本山で串間氏はそのご住職に当たると紹介された。
 僕が四国お遍路に出ようと思ったきっかけのひとつにこのHPの存在がある。 串間氏は、四国を一巡するには1200km弱の行程があり、車でまわるより距離は短いこと。しかし、5〜10kgの荷物を背負って、毎日30〜40km歩くということ。8割は舗装道路であることなど。ある意味苦行の部分もあるが「私は楽しく歩いてきた」と話された。

 またお遍路中は快食・快眠・快便に心がける必要があることやそれに伴う苦労話。サラリーマンの場合、休暇を確保するために、日頃から職場での人間関係を良くしておかなければならないことなども話された。

 司会の佐藤さんが、ある調査でお遍路に出られたきっかけとして、一番多かった回答が、「先祖の供養」。その次に「自分さがしの旅」であったという話を受けて早坂氏のお話となった。

 早坂氏は、子供を亡くされた方など先祖の供養でお遍路されるのは以前から多かったが、ここ10年は若い人から中壮年までお遍路するようになったことを指摘された。
 またNY在住の日本人カメラマンから「日本人でないと撮れない写真って何でしょう」と問われ、そのカメラマン氏が遍路道の近くで生まれたことから、お遍路さんを撮ってみたらとアドバイスされたことを話された。

 そのあと、日本はアメリカと同様に移民の集まりでアメリカでは200年ほど前に起こったことが日本では千数百年前に起こったことや、当時聖徳太子が「和を以て尊しとなす」といい国づくりをしたのは、いかに当時平和でなかったかの証拠だと指摘された。

 さらに聖徳太子は当時の豪族のうち最も勢力の強かった蘇我氏が持ち込んだ仏教を国教とし、天皇家は神道なので二本立てとなってしまったことので、日本人には長らくアイデンティティーがなかったが、本居宣長が国学と日本人アイデンティティーを作ったことを話された。

 本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山櫻花」という短歌に関して、自然の中に出て満喫することや自然の中に身を投げ出して自然に感謝することの素晴らしさを語られた。

 そして明治以降、武士道を日本人のアイデンティティーにしてしまったこと。これは今お札になっている人たちがつくったがこれは失敗だったこと。
 日本が戦争で負けたことにより建物だけでなく心も壊され立ち直りにくくなってしまったこと。今の日本の政治は「究極のあと出しジャンケン」で筋が通ってないことなども言及された。

 明治以降の「武士道」に代わる日本人アイデンティティーは、歩き遍路から見つけられるのではと語られた。

 串間氏は、身近な人への供養やお大師様への尊敬は当然あるものとして、HPの談話室には、歩き遍路することによって自然とのふれあいの素晴らしさ感じることや、お遍路を通して様々な感謝の気持ちが書き込まれることが多いことを挙げられた。

 司会の佐藤さん、歩き遍路の共通項として、「感謝の気持ち」と「自然とのふれ合い」を挙げることができることを挙げられ、早坂氏はさらに、それらを「探して見つける」ことも大切と言われた。

 黒田さんは、早坂氏からこの人こそ日本人ネイティブだと紹介を受けたあと話された。
 「チボー家の人々」の作者ロジェ・マルタン・デュ・ガールに英語で手紙を書き、高一の時に返事をもらったこと。
 30年勤務し、10日間で最御崎寺まで歩きアジャリ様と称される人のこと。
 317年前、松尾芭蕉も2400kmも道のりを歩いたこと。
 日本では江戸時代から寺子屋があって字を読み書きすることができるので誰でも俳句ができること。俳句の季語には著作権がないことなど話された。

 早坂氏は日本人になりたかったゴッホの話をされた。
 ゴッホが日本の浮世絵に感動したこと。日本の絵が鳥の眼、魚の眼、虫の眼で見ていて、そういう視点で絵が描かれていること。
 ヨーロッパでは時間を止めて描くが、日本では時間そのものを描いていること。
 「時間は、宇宙(この世)の帝王」であることなどを話された。
そして、「時間」を感じるために四国の遍路を歩いてみることも提案された。

 そして、午後4時30分、終わりの「時間」が来て、シンポジウム終了となった。
桜1
<写真13 桜1>
桜2
<写真14 桜2>

2003年4月6日 記


           
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