2004年度 12月定例議会 一般質問


平成16年度12月定例議会における一般質問を、通告にしたがって行ないます。久保田市長におかれましては、先の市長選挙において、多くの市民の皆さまか ら信任・信託を得られ、第15代市長として3選を果たされましたこと、心よりお祝い申し上げます。

お体に気をつけて頂き、公約の「市民が主役の街づくり、地域が主役の夢づくり」が一刻も早く実現できることを期待いたします。

1.市町村合併について


今行われている、「平成の大合併」により、1999年4月時点で3229あった自治体数は、昨年12月の段階で、すでに2927に減少しております。さら に毎日新聞の調査によると、合併特例措置の当初の期限05年4月時点で約2400に減り、最終期限直後の06年4月には1850程度に減少すると予測して おります。

過去、日本の市町村は、明治21年に7万余りあったのが、「明治の大合併」で1万5859になり、「昭和の大合併」で約3500に減り、そして今回の「平成の大合併」での総務省の当初目標は1000以下、その数値には届かないようですが、一応の成果を収めつつあります。

市町村合併は、形式的には行政機関の統合であり、当事者意識を持つのは、直接利害が絡む首長、議員、職員であります。

つまり、市民が無関心であれば、利害関係者が既得権益擁護に走りがちであり、必然性があるのに合併しない場合は、ポスト維持が見え隠れしていると、市民に受け取られます。

そうならないためには、まず理念を提示し、具体的に合併後の将来像を市民に示すことが重要です。

つまり合併への選択は、「あくまでも市民の自主性に基づいて行なわなければならない」ことを、昨年9月定例議会の一般質問の際、市長に要望いたしました。 久保田市長からは、「市民の皆さま方に理解され、尚且つ、そのことが市民サービスの向上につながるものでなければ、ならないものであり、合併は目的ではな く、将来の地域づくり、まちづくりの有効な手段のひとつとして継続した論議が必要で有る」との答弁が有りました。

その他の質問に対しても一般論に終止され、合併に対し慎重であると理解しておりました。

しかしその後、市長選から本日まで、ことあるごとに合併について発言を繰り返しておられ、しかもその内容は、より具体的に、より推進の立場を明らかにされているように受け取れます。

我々、民主市民ネットの合併に対するスタンスは、「市民のコンセンサスを得ながら、他市町村に十分配慮した市町村合併を推進する」と明確でございます。

つまり、市民のコンセンサスを得る手続きを踏んでいない、理念なき合併であれば賛成できない!という事であります。

平成の大合併は、地方分権の受け皿を作り、財政基盤を強化することが狙いと言われています、しかし、実態や手法をみると疑問を感じるものも少なくありません。

さらに、2002年11月2日朝日新聞に小規模町村の自治を制限するという内容の西尾私案が大きく取り上げられました。この中で最も違和感を持ったのは、基礎的自治体についての考え方であります。

無理やり一つの型にはめて、何万人以上でなければいけないというのは、オカシイのではないか、国が全てのことに関して枠を決め、枠通りだと、お金を流し、 枠をはみ出すとお金を流さない。これは国の地方に対するコントロールであります。その結果、地方は国に対して依存し、いつまで経っても自立できない。行政 が低いレベルで全国一律になるだけでなく、我々の生活そのものも画一的になります。

特色ある「まちづくり」など夢のまた夢でございます。

改めてお伺いいたします。

【@合併の意義について】

合併の意義については、2000年11月27日地方分権推進委員会の、「市町村合併推進についての意見」の中に必要性を記述してあります。 

まず、地方分権の推進、2つ目に市町村行政の広域化、3つ目に国・地方の財政状況への対応、4つ目に担税者としての国民の意識への対応。

しかし、本音は、国の財政再建とそれに伴う地方交付税特別会計の赤字解消という財政合理化、つまり、国の都合であるということは明白でございます。この、 地方分権の推進の項に、基礎的自治体のことについての記述が有ります。久保田市長もメンバーである全国市長会でも、この基礎的自治体のあり方について整理 することと指摘されています、この点を明確にしておかないと、「合併が市民にとってどんな意義があるのか?」疑問の解決になりません。

どんな『まち』を目指すのか?そのことによって合併の意義は大きく変わります、本市にとっての合併の意義とは何か?市長のお考えをお伺いいたします。

《2問目》

1問目の市町村合併について

まず合併の意義について、地方分権の流れの中で、相対的に地方の責務は今後益々重くなっていきます、目指すべき「まちづくり」によって適正規模は変わりますが、その責務を果すためには地方自治体として自立することが必要であります。

また財政悪化による行政サービスの水準の低下を懸念して、その解決策として合併を選択することは、間違いとまでは申しませんが、合併は行財政改革のゴールでは、決してございません。

住んで良かったと思える「まち」を市民は望んでおり、その為には地域活性化が不可欠であります。その手段の一つとして合併という選択肢は有るでしょうが、本市にとって目指すべき「まちづくり」を明確にできない限り合併自身に意義は無いということを指摘しておきます。

【A合併の進め方について】

  久保田市長は今回の市長選に際し、「市民が主役のまちづくり、地域が主役の夢づくり」をキャッチフレーズに3選を果されました。

合併について、市長自らの想いを市民に対して説明し、方向性を示すということは、重要かつ当然なことであります。

ただ、このキャッチフレーズに込められた言葉の意味は、あきらかに市民参加のまちづくりを目指したものであり、今回の市長選で、市民の2/3以上の方が選 挙に行かれなかった、という現実を重く受け止めるならば、市民が、どんな『まちづくり』を目指しているのか、再度は確認し、一緒に取り組む必要があると考 えます。合併の進め方に対する市長のお考えをお伺いいたします。

《2問目》

市長や議会が決めた合併を、住民投票の結果により白紙に戻した自治体がいくつも発生しています。

なぜか? 私は利害関係者だけの議論の結果で合併を選択したからであると思います。

そうならないためには、議会での議論と住民のコンセンサスを得ることは同時に行なう必要があります。

前回の住民意向調査から2年が経過し、合併特例債も無効となり、さらに経済状況も大きく変わっています。他の議員からも質問されていますが、住民投票も視野にいれて、早急に、住民意向調査を行なうべきであります。 

今後の進め方について市長のお考えをお伺いいたします。

【B合併の効果について】

 財政上の特例措置以外に、自治体側にとってメリットが非常に見えにくいのが、今回の合併です。どんな「まち」を目指すのか、更に地域の将来をどう描くかによって、合併による効果は変わってきます。

今言われている、合併によるメリット・デメリットは短期的な展望に基づいた場合が多く、中・長期に渡ってそれらを保障したものではありません。

さらに、昭和の大合併以降、過疎化は進み、行政サービスの効率は上がっていません、歴史に学ばない一律合併は、国土の荒廃をもたらしたとも言われています。

本市にとり合併の効果は有るとお考えなのか、あるとすればどのような内容であるとお考えなのか、お伺いいたします。

《2問目》

 合併の効果についてでございますが、ご答弁では、分権社会の流れのなか、合併による効率化による行財政基盤の強化によって、「市民が主役の、地域が主役」のまちづくりをさらに推進できるのではないかとございました。

基本的には、私も同じ考えで理念としては理解できるものの、政策評価といった観点から分析することは非常に困難です。

ある新聞社系のシンクタンクが(日経・日経産業消費研究所)が隔年で実施している、行政革新度調査(透明度・効率化度・市民参加度・利便度の4要素を数値 化したもの)で合併と行政改革の関係は図ることが出来ます。つまり、効果については、理念ではなく分かりやすく明確な合併後の目標が必要であります。合併 の効果は「5年から10年かかる」と指摘する専門家も多く、時間も手間も掛かります、住民の視点に立った絶え間ない改革の努力を続けていくことが市民の支 持を得る唯一の道であることを指摘しておきます。


2.公教育について

教育はだれもが口を挟めるテーマであり、しかもイデオロギーや単純な思い込み、あるいは情緒的な議論が支配しがちであります。最近特に、そのような風潮が強くなってきていることを危惧しております。

去る2004年9月1日に、文部科学省の「これからの教育を語る懇談会」が人間力向上のための今後の教育の構造改革の方向性について、第1次まとめとしての提言を行いました、このなかには、教員や学校運営システムについての論点がまとめられています。

私は、公教育、公立校の義務教育にとって、最も重要な課題とは、地方分権(主権)の流れのなかで、官主導の画一的な教育を改め、現場を徹底的に検証し、地域性や規模を考慮した特色ある学校づくりを進め、『全ての子どもに基礎的な学力を保証することである』と考えています。

つまり、自治体としての力量が問われているといえます。

まず、

@学校の役割について

意外ではありますが、現在の教育基本法には、学校の役割についての規定がありません。本市の宇治市教育改革の基本計画「教育ルネッサンスプラン」においても、平成16年度から25年度までの10年間のプランにもかかわらず、役割については抽象的表現に留めてあります。

私は、まず学校の役割を明確にしておかないと、学校として権限と責任を持った教育は出来ないと考えますが、当局のご見解をお伺いいたします。

(a)

学校の役割についてのご質問にお答えいたします。

議員ご指摘のとおり、「学校の役割」について教育基本法には規定がされておりません。

このことにつきましては、中央教育審議会でも論議がなされたところでもございまして、15年3月の最終報告におきまして教育基本法に学校の役割を新たに規 定することについて、提言がなされたところでございます。法による規定につきましては、今後の国の動向を待たなければなりませんが、

現行法制下におきましては、教育基本法第1条において規定された「教育の目的」、及び学校教育法の各校種の「目的」「目標」の達成が、学校教育に求められております。したがいまして、市教委といたしましては、

幼小中学校の役割は、

1.子ども一人一人がこれからの社会の中で、生涯にわたって、心豊かに主体的、創造的に生きていくことができる資質や能力を育成する場である

2.子どもが集団の一員としての自覚を持ちながら、集団生活に必要な態度を育てる場であると考えております。

《2問目》

  学校の役割について、市教委の考えは理解できました。あえて付け加えるなら、学校の役割は不変でなければなりません、育む場であるだけでなく、基礎基本の徹底により、学力を身に付けさせることは確実に保証しなくてはなりません。このことは指摘しておきます。

次に

A  教育目標と教育成果について

  各学校の教育目標や基本方針を拝見して、まず思うことは、宇治市として子どもにどのような教育をするのか、理念が見えてこないことです。

  96年7月中央教育審議会が「生きる力」という新しい概念を答申で述べました、初めて聞いたとき、言葉の意味するところがまったく理解できませんでした。

「我々はこれからの子どもたちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決 する資源や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるた めの健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資源や能力を、変化の激しいこれからの社会を『生きる力』と称することとし、これら をバランスよく育んでいくことが重要であると考えた。」と、説明を読んでようやく理解できました。理想を追求することを否定しませんが、あまりに素晴らし い理想であるだけに、かえって空疎なものに見えて仕方ありません。  

この生きる力を目標とするならば、何をもって教育成果とみなすのか、検証する術がないと考えるからです。本市各学校の教育目標についても同じ事がいえます。

平成17年度より、府教委は新しい学校評価システムを本格実施すると聞いておりますが、本市では、どのような基準で教育目標を評価・検証しておられるのか、お伺いいたします。

 (a)

次に、学校評価についてのご質問にお答えいたします。

学校評価システムにつきましては、本年度の全校での試行実施を受け、17年4月からの本格実施を予定しております。

お尋ねの評価の基準につきましては、

学校における教育活動は、学校が自らの責任の下に意図的、計画的に行うものであり、その評価についても、各学校が学校評議員制度等も活用した外部評価も受 け、主体的な活動として責任を持って行わなければなりません。つまり評価の主体は学校の教職員であり、最終的な評価の責任者は校長でございます。

したがいまして、評価の基準につきましても、学習指導要領に示された基礎基本を踏まえ、各校の児童生徒の実態や地域の状況に応じ、学校長の責任の下、各学校で設定されることになります。

しかし、議員ご指摘のとおり、真に機能する学校評価制度とするためには、評価基準は抽象的・形式的なものではなく、可能なものについては数値目標やスケ ジュール目標を盛り込むなど、できるかぎり具体的で、成果についても客観的に把握しやすいものにすることを学校長に求めているところでございます。

《2問目》

教育目標と教育成果に対する、市教委のお考えは理解できました、私もまったくの同感です。さらに学校現場の中でもっとも欠けているのが経済的発想です、教育には莫大なコストが掛かっています。

府教委との関係で、市教委としての指導に制約があることは理解していますが、いずれにしても自己検証・内部検証では限界があります。

学校評議員制度や保護者アンケート等の「外部評価」を積極的に活用して頂き、この教育成果について、より強い指導力を発揮していただく事を強く要望いたします。

 Bゆとり教育について

  2002年度から始まった新学習指導要領、小・中学校で教える内容を3割減らす内容であったことが、当時保護者の間でも非常に問題になりました、公立 校は週5日制に変更しても、私立校の殆どは週6日制のまま、公教育に不安を感じた財政的に可能な保護者は、塾に行かすなどの対応を行った結果、教育格差が 生まれ、イギリスと同じように親の財政力と子どもの学力がリンクした階層社会になるのではないかと危惧したことを覚えています。

昨年12月7日に発表された、OECD(経済協力開発機構)の学習到達調査で、その危惧が現実のものとなり、公教育だけでは「学力低下」は否めない。「学力低下を認識すべきだ」と中山文化相もコメントされました。

「ゆとり教育」と「学力低下」の関係については、本議会を含め、さまざまなところで議論されはじめていますが、「教える内容を減らして教育を充実させると いうのは、論理的にかなり無理があります」いずれにしても、教育関係者のねらいとはまったく逆の結果になっている事実をどう評価すればいいのか、2年間 「ゆとり教育」を実施してこられた当局のご見解をお伺いいたします。

(a)

 次に「ゆとり教育」についてのご質問にお答えをいたします。

 学校完全週5日制及び新しい学習指導要領が実施され、3年が経とうとしておりますが、この3年間におけます本市の児童生徒の「学力低下」を示す資料はございません。

 ところで、この学習指導要領におきましては、教育内容を厳選し、学習指導要領に示す基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせることはもとより、それに とどまることなく、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむことをねらいとしております。自ら学び自ら考える力などの「生きる力」を育成する上 で、基礎・基本の確実な定着は欠くことの出来ない要素であります。

 しかしながら、「ゆとり」や子どもたちの自主性を強調するあまり、基礎的な学習が軽視されたりするなど、学習指導要領の考え方を誤解した取扱いが一部になされているのではないか等の指摘がなされたこともございました。

 「ゆとり」は「ゆるみ」ではありません。教育内容を厳選することにより、教える側にも、学ぶ児童生徒の側にも、時間的・精神的な「ゆとり」が生まれま す。この「ゆとり」を用いて、個別指導や習熟の程度に応じた指導、課題別指導、ティームティーチングなど個に応じたきめ細かな指導を十分に行うことによ り、学習指導要領に示す基礎・基本の確実な定着が図られます。また、観察・実験、調査・研究、発表・討論など、時間を要する体験的・問題解決的な学習に積 極的に取り組むことができ、これらを通じて、思考力や判断力、表現力が育成されると考えているところでございます。

《2問目》

  ゆとり教育について、本市において「学力低下」を示す資料はないと答弁されましたが、「学力低下を認識すべき」と文部科学大臣がコメントしているわけですから、本市としてもそのように認識したうえで対応策を講ずるべき必要が有ると考えます。

しかし、数年で十分な検証もせずに簡単に方向転換を図る国の無責任振りには厭きれてしまいます。

私が今回問題にしているのは、どんなに優れた理念であっても、それを実際に運営していく現場が十分な理解のもと実行しなければ、効果は上がらないというこ とと、国や府から与えられた教育政策の枠内での「創意工夫」に終始せず、「教育の地方自治」に取り組んで頂くことを強く要望いたします。

C学校と地域のあり方について

  教育ルネッサンスプランにある「開かれた学校づくり」では、学校情報を地域へ、また家庭や地域社会と協働した学校づくり、を目指しています。

市教委のいう「開かれた学校づくり」を否定するつもりはありませんが、昨年12月18日で、痛ましい宇治小事件から1年が経過しました、そこで、安心・安全の観点から学校と地域のあり方について質問を行ないます。

まず、宇治小事件の被害者の保護者から市長他関係者へ申入書を提出されたと聞いております。

本市の取組み状況ついての強い不満や、安心・安全な学校と言うには、程遠い取組み状況であると指摘されているということも聞きました。

この申入内容を真摯に受け止め、誠意をもって応えて頂くことを強く要望します。

また、本市では「学校は開いて守る」というスタンスで、地域に多大の期待をしておられますが、その前に、学校の役割・責務を明確にした上で、家庭・地域との連携を図るべきであると考えますが、ご見解をお伺いいたします。

(a)

 学校安全についてのご質問にお答えいたします。

 幼稚園及び学校における幼児児童生徒の安全につきましては、まず子どもたちが安心して学校生活を送れるよう、学校における安全の確保を図らなければなら ないことは申すまでもありません。そのため防犯カメラや防犯センサーの整備、門扉及びフェンスの改修・改良などの「物理的なセキュリティ」とともに、ス クールサポーターの配置、学校安全管理委員会の設置などの「人的なセキュリティ」の両面による対策を講じて参ったところでございます。

 特に、教職員の危機管理意識の高揚を図るために、市教委といたしましては、「学校安全管理主任」をはじめ教職員を対象とした研修講座を実施し、また各校 (園)に対しては、危機管理マニュアルの整備と日常点検の実施や、宇治警察署の協力を受けて防犯訓練を実施するなどその充実をお願いして参りました。現 在、各学校(園)におきましては、校園長をはじめ一人一人の教職員が常に危機意識を持って、園児児童生徒の安全確保にむけご尽力をいただいているところで ございます。

 しかしながら、昨年1年間の幼児児童生徒の学校外における不審者による「声かけ」「痴漢」等の被害事象は97件もの報告があり、ここ数年増加の傾向を示しております。

  こうした状況を踏まえるならば、昨年「宇治市学校安全に関する研究協力者会議」から答申をいただいたところでもございますが、学校、行政、家庭及び地域社 会の三者の役割を踏まえ、今後も学校と家庭及び地域社会が一体となって、園児児童生徒を見守り支える活動を展開して参りたいと考えております。

《2問目》

学校と地域のあり方について、ご答弁について一定の理解はいたします。しかし、私は、学校と地域が連携する際の課題解決には、教育委員会や学校が主体と なって行なうことに無理が有ると考えています。教育委員会の存在意義については別の機会に論議したいと思いますが、基本的に市長部局で行なうべきであると 考えています。

地域と連携する際の課題として、連携論には、依然として「地域ぐるみ」という考え方、すなわち価値観や理念の一体化・同質化を志向している側面がありま す。私の夢は「自立と共生」社会の実現ですが、「共生」という理念は、一体化・同質化ではなく異質なものを相互に承認する寛容さを認めることであります。

また、地域だけでなく、家庭(保護者)も一枚岩ではございません、学校と親、あるいは親と親の関係は葛藤や妥協こそがむしろ常態であり、調整や説得には多大な時間や労力が必要となります。

  このように、子どもを取り巻く環境は、均質な価値観が支配する空間にはなりえないし、すべきではない、ということを前提に連携を行なう必要がありま す。地域との連携を、学校現場や市教委だけに任すのではなく、関係部局との横の連携を持って実施すべきと考えますが、市長のご見解をお伺いいたします。

《3問目》

学校と地域の有り方については、ご答弁をお聞きして縦割り行政の課題も認識され、そのほかの問題解決にも取り組んでいかれるとのことですから、理解いしました。

今後とも持続可能な活動となるには、行政の更なる支援が必要ですkのことを強く要望いたします。

D教員の人材育成について

  公教育は、不登校・学力低下・青少年犯罪の増加を始め様々な問題を抱えています。この現状に国民の誰もが教育について不満と不安、そして危機感を募らせています。

  昨年12月17日中央審議会は、義務教育制度全般について検討する特別委員会の設置を決めました。国を挙げて教育改革に取り込もうとしていますが、どんな政策を立てても実行するのは現場の教員であり、成功は教員の質にかかっています。

本市の教育ルネッサンスプランにおいても、学校教育を支える人材の育成について書かれていますが、残念ながら努力目標的表現に終始してあります。

教員の能力や実績を適正に評価するシステムの構築が急務だと思いますが、本市の取組み状況をお伺いいたします。

《2問目》

教員の人材育成について、まさしく府の教育行政の枠の中でしか出来ないとご答弁を頂きました。

私は、教育は現場の教員次第であると考えています、その教員は大学を卒業して、学校へ来たらいきなり先生と呼ばれます、一人前に突然なってしまう数少ない職業です、その所為かどうかは分かりませんが、コミュニケーションも取れない指導力不足の教員の噂も聞きます。

このような現場の実態を府が把握しているのか疑問です。市が設置している学校は、市教委が「服務監督権」を持ち行使に当たっては大きな裁量権が与えられて います。したがって服務監督権者として独自の展開が出来るはずです。宇治市の将来のためにも教員の人材育成に積極的に関与していただく事を強く要望いたし ます。


3.景観について

 2003年7月国土交通省は「美しい国づくり政策大綱」を発表し、社会資本整備の基本的な方向性が示され、これに基づいて、2004年6月には景観緑三法が成立、12月17日に景観法が施行されました。

並行する動きとして、4月に観光立国懇談会が報告書をまとめ、7月には「観光立国行動計画」が公表されました。

これらは、諸外国と比べて社会資本整備の遅れを強調し、量的充実に力を注いできた、従来の国土行政の行方を大きく転換することを象徴した出来事でありま す、本市では、これに先立つ2003年3月に策定された都市景観形成基本計画の答申で「宇治市はすべてが美しくなければならない」という景観まちづくりへ の意志をすでに表明しておられます。

景観法は、施行前から運営上の限界を指摘されたりしていますが、創意によっては、今後の景観まちづくりに対する、本市の方針を強力に後押しすることが出来、良好な景観の保全・形成に寄与するものと期待しております。

景観を重視した、「美しい地域づくり」を目指す事を共通認識として、以下の質問を行ないます。

まず

@景観法と宇治市都市景観条例の関係について 

  景観法第2条、基本理念に「良好な景観は、国民共通の資産として、現在及び将来の国民がその恵沢を享受できるよう、その整備及び保全が図らなければならない」と謳ってあります。

宇治市都市景観条例は、他市の景観条例と同様、法的根拠のない、緩やかで任意の規制でありますが、景観法はこうした条例の根拠になる、理念法・基本法であ り、違反に対しては、変更命令や罰則規定も可能になる画期的なものであります。また注目を浴びていた、国立市マンション訴訟の高裁判決が昨年10月にあり ました、「景観は行政主体で整備されるべきであると」

法制度が整備されたことで、今後、自治体の役割が一層重要になってきます。

明確な理念を実効性あるものとしていくには、まず現条例を見直し、再整備を行うことが必要です。

さらに、本市が「景観行政団体」となる意思決定を行い、「景観計画区域」や「景観地区」の指定を行なわなければなりません。

これらの手続きには、市民のコンセンサスを得ることがもっとも重要であり、簡単にいかないことも予想されます。

法整備を含めた、今後の取り組みには、当局の体制の整備の見直しも必要となります。つまり、システムと人材がポイントです。これらの作業が今の体制で可能であるとお考えなのか、スケジュールも含めお伺いいたします。

次に

A景観まちづくりについて

  本市において景観を考える場合、美の基準をどこに置くのか、ということをまず確認しておかなければなりません。

私は、市民の誰に聞いても、世界文化遺産の「平等院」・「宇治上神社」そしてその周辺の風致景観である、と答えられると思います。

しかし現在の状況は、美を意識したまちづくりに取り組んだ形跡は、殆んど見うけられません。

都市計画の整合性の無さが、乱開発、無秩序のまちづくり、後追い的な地域・地区指定、まちのどこをみても美しいと思えないのは、私だけでは無いと思います。

都市景観形成基本計画の答申で「宇治市は全て美しくなければならない」と有りました、これは、まさしくこれからの目指すべき、まちづくりの理念であります。

確かに、好みの分かれる景観は、言葉で語られる『美の領域』であると考えられていますが、実際は地域コミュニティのあり方、自分達の住む地域社会の維持の 仕方等、地方自治につながる問題を内包しており、それが、保守的な地域セクショナリズムや排他主義であることからも、まさしく自治問題であると考えられま す。

  ヨーロッパでは都心部に建てる建築に厳しい規制を掛けています、それに対する反発や反動がないわけではありません、しかし、規制と議論を通して自分た ちの住む場所をよりよりものにしていこう、という意思の力を感じます。日本の場合、土地所有の権利意識が強すぎ、個人の美意識は高くても自己完結的であ り、景観に対しての意識が希薄であったと言えます。

  しかし景観法が出来た背景には、各自治体や市民の景観に対する意識の高まりがあり、今は「景観まちづくり」の大きなチャンスであり、最後のチャンスであると考えています。

多くの市民が参画することにより、その実効性は必然的に高まっていきます。

  市民参加のまちづくりの具体的な手法と体制作りのサポートが行政には求められています、当局のお考えをお伺いいたします。

  また、現在問題となっている、宇治妙楽マンション計画について、市民運動を行われている方から相談を受けました、詳しくお話しを伺っていくうちに、市 民の方が自分達の住環境を守ってくれるはずだ、と潜在的に期待していた制度が、まったく期待はずれであり実態とは乖離していることに、議員として責任を感 じずには居られませんでした。

景観法は出来ました、しかし制度が質に着目することは、量を対象とする場合に比べて、運用は格段に困難になることは事実であり、各方面から指摘もされています、しかし、そうならないためには、景観法と都市計画の見直しが必要であります、当局のお考えをお伺いいたします。

また、景観地区指定に向けた動きが市内2箇所であると地元紙で報道されました、他市の事例をみても景観整備を行うことにより中心市街地の活性化を図ろうというのは安易であり、失敗している事例が数多くあります。この目的と今後の進め方についてお考えをお伺いいたします。

《2問目》

景観についてのご答弁をお聞きして、まず感じるのは、本市として景観についてどう考えているのかが伝わってこないということです。

何を保全し、創造するのか全く分かりません。現状について或いは条例や景観法が出来たいきさつについては、縷々(るる)説明して頂きました。

しかし、それ以外の質問に対しては、ほとんど検討するという文言で締めくくっておられます。

その中で唯一評価できたのは、「景観行政団体として、景観行政を進めていくという方針」を明らかにされたことです。

今、都市景観や地域景観の均質化が進み、まちが個性と魅力を失っています、都市間競争が始まっているなかで、世界文化遺産を持つ本市の優位性は高いと認識されていると思います。しかし将来を担保されているものではありません。

また、審議会の役割を否定するものではありませんが、市民は環境の問題や景観の問題、コミュニティの関係までも審議会に過度の期待をしています。この状況は、行政の政策に対する自信のなさ、あるいは運用への消極的姿勢に対する反動ではないかと考えられます。

 改めてお伺いいたします。

まず、今後景観法の検討に際し、先に宇治市都市景観条例について検証しておく必要があると考えますが、条例施行によってどのような効果があったのか、お伺いいたします。

次に、景観法と都市計画の見直しについてで、ございますが、最初の質問の際申しましたように、「美の基準をどこに置くか」ということが重要であります。今 問題となっている、平等院鳳凰堂の「眺望景観」と宇治妙楽マンション計画にみる「ふつうのまちの景観」とは、相関関係はありますが論点が違います。

「景観10年、風景百年、風土千年」と言われています。これを護るも滅ぼすも景観法の上手な運用に掛かっているといっても過言ではありません。

しかし、その護るべきものが危機的状況にあることは認識されていると思います。今、要求されているのはスピードであり、行政の強いリーダーシップであります。

期限を切らない検討など無意味です、当局の考えておられるスケジュールを再度お伺いいたします。

次に、人材についてのご答弁を伺い、問題意識をお持ちということは理解できました。

しかし現実に、行政に専門家はおられません、コンサルタントに依頼する予算もないと伺っています、市民もそれほどプロではない、これで景観法を使いこなせるのか疑問です。

今後の人材育成システムについて当局のお考えをお伺いいたします。

《3問目》

 宇治市都市景観条例の施行後の効果については理解できました。

次に、中宇治地域の宇治妙楽マンション計画にみる「ふつうのまちの景観」、今回地元住民の皆様から出た、要望書は過去にない要望であると聞いております。 住民自らが本市の都市計画や都市景観条例の問題点に気づき、自らの権利を放棄してまで「景観まちづくり」を実現しようとされています。都市景観はいつも進 行形であり、無策であれば決して良くはありません、当局が当事者意識を持って誠意をもって対応していただくことを強く要望いたします。

最後に人材育成システムについては、景観法の活用に向け研究会にいかれているとのことですので一定の評価はいたしますが、システムというには程遠いということを指摘しておきます。また、審議会の位置づけと役割・権限をより明確にしておく必要があることも指摘してきます。


以上で質問を終わります、御清聴ありがとうございました。